1983年_上田城
 写真総数:5枚
 

 
 

 
 
初めに  [TOP]
 
 1983年ごろ、上田城から高峰温泉に行った時の写真です。
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 元官祭上田招魂社(扁額)  [TOP]
 
(1)陸軍大将正二位勲一等○○まぐ議員大山厳(いわお)書
(2)元官祭上田招魂社
 官祭とはWIKIによれば

 官祭(かんさい)は、公祭(こうさい)とも呼ばれ、国家行事としての位置づけがなされた神社の祭礼のこと。

 上田招魂社についてブログには

 当招魂社は戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ日清日露の戦争を経て今次の大東亜戦争に至る間国家の為尊き命を捧げられた人々の英霊をまつる御社であります


 

 
 上田城  [TOP]
 
(1)I氏
 

 
 海堂山宗吽寺山門(上田城内)  [TOP]
 
海堂山宗吽寺とは
ブログによれば

 海堂山「宗吽寺」は真言宗で紀伊高野山の末寺です。もともとは上田城の堀近くにあったものを上田城築城の時にここに移したといわれています。開山は什慶といわれ、中興は慶英といわれています。
 宗吽寺は上田藩主の祈願寺となり、松平氏の参勤交代の折りには、江戸への出立の吉日をこの寺が選んだといわれています。


 上田城とはWIKIによれば

 上田城(うえだじょう)は、長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった日本の城。なお、現在残っている城は、仙石忠政によって江戸時代初期の寛永年間に再建築城されたものである。

 概要

 上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった[1]。北に太郎山、南に千曲川があり、築城前は土豪小泉氏の古い城館が存在した(現在、二の丸より西側の小泉曲輪と呼ばれている場所)と伝えられる。
 城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込んで総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。

 上田城は戦国時代末期、信濃国小県の真田氏館(真田本城)の真田昌幸が真田氏当主であった1583年(天正11年)に築城が開始された平城である。
 1585年頃に真田氏館などから本格的に拠点を移したと考えられている[2]。
 天正11年、天正13年、天正18年と何度かの過程を経て築城をされたものである[3]。

 上田を含む信濃国は、支配していた武田勝頼を甲州征伐で滅ぼした織田信長が本能寺の変で横死した後、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が行われた。
 甲州征伐で生き残った真田昌幸は、臣従する相手を次々変えたうえに徳川家康についたが、天正壬午の乱の戦後処理を巡り対立。
 1585年(天正13年)の第一次上田合戦で攻め寄せた徳川軍を撃退した。
 その後に天下人となった豊臣秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦い(慶長5年)で西軍についた真田昌幸は、連動する第二次上田合戦でも東軍別動隊の徳川秀忠軍に立ち向かい[4]、よく防いだ。
 本戦で西軍が敗れたため、昌幸は紀伊国の九度山に配流され、翌1601年に上田城は徳川軍に破却され、堀も埋められた。


 

 
 高峰温泉雪上車  [TOP]
 
 高峰温泉のHPによれば

 今からさかのぼること100年以上も前。明治初期当時、深沢川下流から約12キロ川沿いの山道をのぼって行く所に、地元の農家の方が家畜のえさの牧草を刈りに来たその帰り、岩のところから涌き出る温泉を見つけました。そのお湯を桶を伏せたところに入れた簡単な野天風呂が、山奥の温泉としての始まりでした…。
 明治35年初代後藤音吉は、源泉近くに宿を建てるための土台石を築きましたが、宿を造る目前、大水と土砂崩れで源泉が埋没してしまい、やむなく山を後にしました。
 昭和29年先代の意志を継ぎ、2代目後藤一が温泉ボーリングから開発に入りました。
 昭和31年10月1日念願の旅館開業に至り、谷間にある一軒宿は多くの登山客に愛され、ご利用いただきました。
 昭和53年11月10日火事で全焼。3代目後藤克巳が火災を機に、標高2,000mの高原に移転での再出発。しかし、電気もなく温泉水を上げるめどがなかなか立たず資金もないため、自分達で工事をして5年の歳月が流れてしまいました。
 昭和58年7月15日念願の開業となりました。
 平成6年12月現在の山小屋風ランプの宿となりました。
 ランプの灯と共に皆様をお迎えします。
 現在、玄関入口に敷かれている階段の石は、初代が築いた土台石を使用しています。



 

 
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