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| 初めに
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1984年ごろ浜岡、焼津、島田を歩いた時の写真です。
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<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ----------------------> |
| 紀元2600年(御前崎付近)
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WIKIによれば紀元2600年記念行事とは
紀元二千六百年記念行事(きげんにせんろっぴゃくねんきねんぎょうじ)とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。 |
| 御前崎あたり
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| 御前崎のレーダー
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御前崎分屯基地のWIKIによれば
御前崎分屯基地(おまえざきぶんとんきち、JASDF Omaezaki Sub Base)とは、静岡県御前崎市御前崎2825-1に所在し、第22警戒隊が配置されている航空自衛隊入間基地の分屯基地である。分屯基地司令は、第22警戒隊長が兼務。 概要 1949年にアメリカ軍のレーダーサイトとして建設され、1958年に航空自衛隊へ管理運営が移管された[1]。第22警戒隊が配置され、J/FPS-2レーダーが運用されている[1]。 24時間態勢で太平洋の空域を監視する事を主な任務としている[2]。また、近傍にて火災が発生した際には消防署と連携して消火活動を行う[2]。 基地内にはかつて航空自衛隊が運用していた練習機T-3(11-5539)が展示されている[3]。 また、公式キャラクターが14種類と数多く存在する[4]。 |
| 御霊神社(焼津神社)
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御霊神社の由来は以下のようである
御霊神社(みたまじんじゃ)は西南、日清、日露の戦役をはじめ大東亜戦争まで、各戦役において戦死した焼津出身の2,600余柱の英霊をお祀りしている社です。 遺族会参列のもと、毎月15日には月次祭を、10月には例祭を斎行しています。 現在の御霊神社の拝殿は、もとは本社の拝殿で江戸時代中期に建てられたものです。昭和18年、本社の拝殿を建て替えるにあたり、移築され御霊神社の拝殿となりました。 |
| 忠魂碑(焼津神社)
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焼津神社内
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| 大和武尊(やまとたける)像
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焼津神社と日本武尊というブログによれば
焼津の由来 焼津の地名そのものが、日本武尊の伝説に由来。古事記、日本書紀によると、日本武尊は景行天皇の命による東征の途中、賊の火攻めに遭いました。絶体絶命の状況の中、日本武尊は叔母「倭姫命」(やまとひめのみこと)によって授けられた「天叢雲剣」(あまのむらくものつるぎ)で草を薙ぎ(なぎ)払い、火打ち石で賊を迎えて火を放ちます。すると炎は向きを変え、勢い良く賊の方に向かっていったため、日本武尊は窮地を脱することができたとされます。 このことから、天叢雲剣は「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)、敵を炎で撃退した場所は「やきつ」と呼ばれるようになりました。のちに「やきつ」が転訛して「焼津」(やいづ)とされ、現在の地名となりました。焼津の地に鎮座する焼津神社は、日本武尊の火難伝説を今に伝えているのです。 |
| 神武天皇像
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御大典埋立竣工
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| 焼津神社
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関連ブログによれば焼津神社のご由緒
焼津神社の御創建は反正天皇4年(西暦409年)と伝えられており、今から1,600年以上も前になります。 日本武尊の知恵と勇気と優しさを称え、焼津の守神としてお祀り(おまつり)をしたことが焼津神社のはじまりです。 神社を含む一帯では、宮之腰遺跡という1,600年程昔の遺跡が出土しており、古代祭祀の道具や人々が生活していた跡が発見されていることから、その時代からこの場所に神社があったことがわかります。 室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されてきました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られています。 今川氏や徳川家などの武家の信仰も厚く、また焼津地域の人々や命がけで漁に出て働いていた漁業関係者にとっての心の支えとして崇められ、現代までその信仰が受け継がれています。 |
| 非常板
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津波・火事・盗難など非常の場合タタいて下さい 焼津ライオンズクラブ
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| シルバーゾーンここから
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| 黒のスレート?屋根
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| 墓地
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| 今上陛下御巡察の地
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関東巡幸と東海巡幸
●「お茶を作るのは食糧を作るのと同様だ。少しでも増産するように。静岡は茶の名所だから期待している」(昭和21年6月18日) 静岡巡幸の際に昭和天皇は丸三製茶作製工場をご視察されこう激励された。 |
| 工場
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島田付近のどこか
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| 島田宿大井川川越
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島田宿大井川川越遺跡の説明によると
江戸時代、駿河国と遠江国の国境にあたる大井川は防衛目的などの理由により幕府により架橋、渡船が禁じられていました。馬子唄で「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われるほど大井川の川越は東海道で最大の難所であり、増水のため川留めになると水が引くまで何日も待つことがありました。 大井川を渡るためには人足に肩車をしてもらうか、輦台(れんだい)と呼ばれる神輿のような乗り物で担いでもらう必要がありました。この川越しの管理・統制は、島田代官や宿場役人が行っていましたが、元禄9年(1696年)に川越制度が確立し、川庄屋と年行事が任命されて運営されました。 島田宿は大井川を渡る川越の起点として大変賑わいました。島田宿大井川川越遺跡は、当時の川越の料金所(川会所)や人足の待合所(番宿)などを復元、保存し、当時の様子を今に伝えています。昭和41年に国の史跡に指定されました。 |
| 島田宿大井川川越2
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| 輦台(れんだい)
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| 輦台(れんだい)
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| 川札のねだん
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| 堰跡
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| 大井川橋
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| 永仰景迹
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このYOUTUBEによればこの石碑は
天皇陛下御巡幸記念碑「永仰景迹(えいげいきょうじゃく)」昭和7年建立とのことである。 |
| ろうきん
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