1990年_会津若松
 写真総数:16枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 1990年に社員旅行で会津若松市および浄土平にいったときの写真であす。
<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ---------------------->
 

 
 会津飯盛山_スロープコンベア  [TOP]
 
 

 

 
 会津飯盛山_スロープコンベア2  [TOP]
 
1990年前後はこのように屋根がないエスカレーターでした、現在(2025年)は屋根があるようです。

 

 
 フォン・エッツドルフのドイツ記念碑  [TOP]
 
 昭和10年6月ドイツ国(現ドイツ連邦共和国)大使館政治担当外交官 HassoVonEtzdorf 氏が白虎隊精神を賛美して贈られた碑文と十字架である。
 碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
 第2次世界大戦後アメリカ進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28年再刻のうえ復元されたものである。

フォン・エッツドルフのWIKIによれば

 ハッソー・フォン・エッツドルフ(ドイツ語:Hasso von Etzdorf、1900年3月2日 - 1989年7月2日)は、ドイツの外交官。
 ハッソー・フォン・エッツドルフは、オスターラントの貴族であるエッツドルフ家(ドイツ語版)に生まれた。プロイセンの高等行政官リューディガー・エッツドルフ(ドイツ語版)の子息である。ウルリッヒ・フォン・エッツドルフ(ドイツ語版)の甥で、パイロットのマルガ・フォン・エッツドルフの叔父に当たる。
 第一次世界大戦に参戦し、1918年当時の階級は中尉だった。その後ゲッティンゲン大学で法学と経済学を学び、1922年に法学博士号を取得する[1]。1919年よりドイツ国家人民党(DNVP)党員となる。1924年からは鉄兜団、前線兵士同盟にも加入した。
 1928年5月、ドイツ外務省に入省し、1931年に東京駐在の外交官となる(駐日ドイツ大使館付書記官[2])。1935年に福島県会津若松の飯盛山に白虎隊を顕彰する「ドイツ記念碑」を寄贈した[2]。ただし、碑が完成したときにはエッツドルフは日本を離任しており、彼自身は(太平洋戦争後に再度設置されてからも含め)一度も現地で碑を目にしたことはなかった[2]。
 1933年6月1日にナチス党に入党した。1934年10月に、外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラートの私設秘書となる。1937年2月、大使のウルリッヒ・フォン・ハッセルと同格の外交官としてローマ駐在となる。1938年1月30日、突撃隊に加入し、最終階級は中佐だった。

飯盛山のブログ[2013年07年03日]によれば

 ドイツ人外交官
 ハッソー・フォン・エッツドルフ Hasso von Etzdorf (1900 - 1989) が贈った記念碑。
 そこには"Ei

 

 
 フォン・エッツドルフのドイツ記念碑2  [TOP]
 
Ein Deutscher + jungen Rittern von Aizu 1935
「一ドイツ人が  会津の若き騎士たちに 1935」訳はこのブログを参考にした。

 

 
 ローマ市寄贈の碑  [TOP]
 
 
WIKIによれば

 ローマ市寄贈の碑 - 1928年(昭和3年)にイタリアの首相ムッソリーニが寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑。建立の発端は、ムッソリーニと親交があった下位春吉が若松市市長に対し「ムッソリーニは白虎隊の事績に感激し、記念碑を送ることを計画している」と述べたことによる。実際には当該計画は存在せず、下位による作り話だったが、この話題が新聞に掲載され、幣原喜重郎や山川健次郎ら名士からの賛助も得られたため、実際に記念碑を建てる必要が生じた。そこで外務省よりムッソリーニへ打診し、建立に至ったとされる[32]。

 
マサカリがGHQによって撤去された経緯は以下のブログにありました。

 寄贈当時、ファスケス(古代ローマの権威を表す、斧を複数の棒で束ねたもの)が4本ありました。しかし第二次世界大戦後、GHQによってそれらは持ち去られ、碑文も削り取られてしまったそうです。碑文については昭和60年に、飯盛山の墓守であった飯山フミ氏によって復元されました。


 マサカリも碑文もある状態の写真が合図若松市/デジタルアーカイブにあります。
 
 この碑(1928年寄贈)の円柱の上に鷲がのるというデザインは忠魂碑(1911年作成)と酷似している。下位春吉氏らがこの忠魂碑を参考にとか進言したとかはないのだろうか。謎である。

 

 
 ローマ市寄贈の碑2  [TOP]
 
 白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市は昭和3年(1928)ローマ市民の名をもって、この碑が贈られた。
 この碑の円柱は赤花崗(せきかこう)で、ベスビオス火山の噴火で埋没したボンベイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。?石表面にイタリー語で「文明の母たるローマは白虎隊勇士の遺烈に不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」、裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれていた文字は、第二次世界大戦後に連合国軍によって削り取られた。

 

 
 白虎隊十九士の墓  [TOP]
 
WIKIによれば

 白虎隊(びゃっこたい)は、会津藩が戊辰戦争勃発後に断行した軍制改革において、数え16・17歳(嘉永6・5年生まれ)の藩士子弟で組織した総勢300余名の年少部隊。
 特に白虎二番士中隊は飯盛山での自刃(十九士の墓)で知られるが、白虎隊士の8割以上は戦死・自刃を免れ明治維新後を生きた[1]。

 二番士中隊「十九士の墓」
 飯盛山のいわゆる「白虎隊十九士の墓」は、1890年(明治23年)11月3日に追悼碑とともに建立された。

 自刃の理由に関して
 1928年(昭和3年)に刊行された平石弁蔵『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって、白虎隊は若松城周辺から上がる煙を見て落城したと誤認し、自決を選んだという認識が一般に広まった。
 しかし、2008年に飯沼一浩(飯沼貞吉の孫)宅で発見された[29]、貞吉が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(1902年:貞吉からの聞き書きに本人が朱を入れたもの)には、若松城へ戻るべきか、敵軍に斬り込むか「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」というやり取りがあったことが記されていた。
 会津藩士の子孫や研究家からなる「白虎隊の会」は2011年、落城誤認説は誤りであるとする説明文を飯盛山に設置した[1]。入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したとされる[30]。


 

 
 会津若松城の石垣  [TOP]
 
 

 

 
 会津若松城  [TOP]
 
 若松城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていた。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心であった。藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり幕末には戊辰戦争の激戦地となった。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている[1]。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館がある。天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。
 1868年(慶応4年)、戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争(会津城籠城戦)にて、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。1か月間籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾して9月22日(太陽暦11月6日)開城した。
 本丸は1960年(昭和35年)までには現在の形状に復旧された。現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」[17]として公開されている。

 

 
 武者走り  [TOP]
 
WIKIによれば

 犬走り(いぬばしり)とは、垣根と溝渠の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分。犬が通れるくらいの幅しかないという意味合いから呼ばれる。
 
 城郭の犬走り
 石垣・土塁の内側に設けられた小径は「武者走り」と呼ばれ、若松城などに類型が見られる。


 

 
 忠魂碑  [TOP]
 
ブログによれば

 日清・日露両戦役戦病死忠魂碑です。明治四十四年(一九一一)、本丸でこの忠魂碑の除幕式が盛大に行われ、終戦後この地に移されました
--引用;「鶴ヶ城を歩く」佐藤恒雄著/歴史春秋出版(株)/1998年発行--


 

 
 武者走り?  [TOP]
 
銃を打つための段差か?

 

 
 撫で牛  [TOP]
 
会津天満宮か?

 

 
 蔵  [TOP]
 
所在不明

 

 
 吾妻小富士火口  [TOP]
 
 

 

 
 浄土平  [TOP]
 
WIKIによれば

 浄土平(じょうどだいら)は、福島県福島市土湯温泉町鷲倉山(磐梯吾妻スカイライン中間地点)にある湿原である。
 吾妻連峰の東部に位置し、周辺は一切経山の火山噴火により生成された火山荒原と、オオシラビソを主とする針葉樹林の原生林となっている。


 

 
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