1991年出水 
1991年1月3日 鹿児島県出水市周辺をウオーク
撮影場所(鹿児島県出水市等):写真総数:8枚




 

 

 

 
 阿久根駅前ロータリー  [TOP]
 
手前に野良犬がいる。時刻は9時40分ごろか。駅を背にして撮影。撮影場所はこの あたり 、阿久根駅のWIKIは コチラ
 

 
 出水の石垣作りの農家  [TOP]
 
 

 
 出水の鶴  [TOP]
 
 

 
 出水の鶴2  [TOP]
 
 

 
 出水の鶴3  [TOP]
 
 

 
 出水の鶴4  [TOP]
 
 

 
 円空仏?  [TOP]
 
 

 
 俊寛僧都碑(しゅんかんそうずひ)  [TOP]
 
出水市の HP にはこの碑について書いてある。その説明には「 自然石の面に「為俊寛僧都菩提也 施主 吉冨十郎左衛門 延宝五丁巳」とあり、1677年に建立されたものである。 平家物語によると、俊寛僧は、平清盛の専横を憎み、平家を滅ぼそうと陰謀を企てたが、発覚し同士の藤原成経、平判官康頼とともに硫黄島へ配流された。その後藤原成経、平判官康頼は許され京に帰ったが、俊寛は重罪として独り島に残された。伝説によると、その後俊寛は救われて密かに島を脱出するが、舟中で病になり、荒崎で舟を降り、山内寺で隠棲中に死亡し、ここに葬られたと伝えられている。墓は元、土塚であったが野田の住人吉冨十郎左衛門が500年忌にあたる延宝五年に石碑を建てて祀ったものである。」とある。
俊寛のWIKI より生涯については「後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。安元3年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(ただし、『愚管抄』によれば、信西の子・静賢の山荘で密談が行われたとされている)。だが、密告により陰謀は露見し俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀) 」、流刑地については「俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島と、大島郡喜界町の喜界島には俊寛の墓と銅像、長崎県長崎市の伊王島に墓があり、諸説ありはっきりしていない。なお、硫黄島にはかつて俊寛旧邸宅跡の碑が残されていた。ひそかに島を脱出したという説も多く、阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。」、この中にある出水市にある言い伝えに関連したものがこの碑文なのかもしれない。
 

 
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