2023年_姫路城_01
 写真総数:37枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 2023年10月23日、姫路城付近を歩いた時の写真です。この日の写真は枚数が多いため、以下の写真集は(その1)ということになります。ほぼ姫路城の南西部周辺の写真となっています。
 

 
 南部土塁  [TOP]
 
 姫路城の世界遺産の登録範囲は コチラ 、この土塁は南部土塁と呼ばれ、登録範囲の南側の境界にあります。ストリートビューは コチラ 、本町商店街の南側入り口あたり。
 

 
 姫路城  [TOP]
 
 
 

 
 姫路城前交差点  [TOP]
 
 正面にある小山は景福寺がある景福寺公園、ここの頂上(標高34.1m)から、姫路城をのぞむことができます。
 

 
 大手門付近の堀(内堀)  [TOP]
 

 映り込みがきれいな幅の広い堀、堀の水を解説した情報 サイト によると
「姫路城下には天守を中心として左回りのらせん状に内・中・外と3周の堀が囲んでいました。それによって区画された3重の曲輪で防御を固め、その出入り口となる虎口は城門が配置されていました。

 堀の水
 今は外堀は殆ど埋められています。中堀も一部が埋められて寸断されていますが、現存する堀の水は循環させているようです。その流れを示すパネルが、清水門付近に設置された水質浄化事業の竣工記念碑に埋め込まれていました。
 市のサイトで調べると、船場川から北部中堀に取り込んだ水をポンプを利用するなどして約5日間で循環させて、西部中堀から再び川に戻している」
 

 
 桜門橋  [TOP]
 
 大手門付近の橋、この橋を紹介した 記事 によると
「江戸時代、大手門には内濠を渡るために木橋が架けられていました。
現在の桜門橋は発掘調査で出土した橋台の遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして築いたものです。幅7m、長さ22mあり、平成19年2月に完成しました。」
 

 
 桜門橋と姫路城  [TOP]
 
 
 

 
 国宝姫路城_特別史跡_姫路城跡_姫路市長_戸谷司_書  [TOP]
 

国宝に指定されている城は?
「日本で天守が国宝に指定されている5つの城の総称が「国宝五城」
松江城(島根県)
姫路城(兵庫県)
彦根城(滋賀県)
犬山城(愛知県)
松本城(長野県)」

国宝で世界遺産
「609年の大天守の完成から400年以上の歴史を持つ「姫路城」は、日本の国宝であり、世界遺産でもある。
 1951年6月、姫路城の大天守、西小天守や乾小天守、東小天守、渡櫓(わたりやぐら)など、8棟が国宝に指定された。
 1993年12月には、奈良の法隆寺とともに、姫路城は日本で初めて世界文化遺産に登録された。世界遺産に登録されている世界の「城」のほとんどは石造りやレンガ造りであり、姫路城は希少で秀でた木造建築として評価されている。」
 

 
 景福寺公園  [TOP]
 
 
 

 
 姫路城大手門と桜門橋  [TOP]
 

 姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高くかつ厳重な門でした。現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13(1938年)に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。また、大手門前の内堀には桜門橋という木造橋が架けられていました。今回復元した桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして平成19(2007)年に築いたものです。
 

 
 桜門橋から見た堀(堀幅47m)  [TOP]
 

 堀についての素朴な疑問に答える 記事 があったので以下に紹介します。

(3)水堀にはどんな種類がありますか
 水堀の形状による分類は、堀の断面がX字形で堀の中央部が深くなる「薬研(やげん)堀」と、底が平らな「箱堀」が代表的な種類です。鉄砲が普及する以前は弓矢を避けることのできる堀幅があればよかったので、堀幅が狭い薬研堀が主として用いられていました。 射程距離の長い鉄砲が普及すると堀の幅も広くなり、広くて堀底の平らな堀が造られました。 このような堀を箱堀といいます。 姫路城では外堀、中堀、内堀共に箱堀で、薬研堀の存在は確認されていません。
(4)姫路城の堀の大きさはどれくらいですか
 姫路城の堀幅は、内堀の桜門西方で 47m と最も広くなっています。 喜斎門(きさいもん)付近で 12m、中堀の 久長門(きゅうちょうもん)付近で 20m、外堀の外京口門付近で 10m など場所により一定していませんが平均20m 前後です。 深さも場所によって多少相違があり、平均 2.7m 前後でしたが、現在はかなり浅くなっています。
 堀の長さは内堀で 3.0km、中堀が 4.3km、外堀が 5.2km で合わせて 12.5km もありました。
(5)姫路城の堀の水はどこからきていますか
 姫路城の堀の水は、湧き水と船場川の水を主に利用していました。 現在も船場川の水を利用していますが、堀が途切れているところがあるので、ポンプで循環させています。
(6)姫路城の堀はなぜ内中外と行くにつれて狭くなるのですか
 堀は外側になるほど長くなります。外堀を内堀と同じ巾にするには大勢の作業者と時間とお金が必要です。一方で、外堀は長いのでその全長に城兵を配置することはできません。
 だから、外堀は見せかけでそれほど防御効果はないので、狭くてもかまわないと思われたようです。中堀も同じ理由で内堀ほど広くありません。
 

 
 史蹟姫路城  [TOP]
 
 
 

 
 大手門  [TOP]
 
 
 

 
 三の丸広場からの姫路城  [TOP]
 

 三の丸には何があったかを以下の 記事 で説明しています。
「城主の居館は築城当初、天守台の下にある本丸にあって備前丸と称していました。
 しかし、山上で使い勝手が悪いため、本多忠政は三の丸に本城と称する御殿(三の丸御殿)を建ててここに住んだのです。
 三の丸には本城と呼ばれる藩主の公務に使われる御殿(本城、上屋敷)、別邸の向屋敷御殿(下屋敷)、本多忠刻と千姫が新婚生活を送った武蔵野御殿の3つの御殿が御殿群を形成していました。」
 

 
 姫路城三の丸  [TOP]
 
 
 

 
 三の丸から見た姫路城(2)  [TOP]
 
 
 

 
 三の丸から見た姫路城(3)  [TOP]
 
 
 

 
 三の丸の石垣から見た内堀  [TOP]
 
ストリートビューは コチラ
 

 
 大天守大柱展示場付近からの姫路城  [TOP]
 
ストリートビューは コチラ
 

 
 姫路城_大天守大柱展示場  [TOP]
 
 
 

 
 旧西大柱の看板  [TOP]
 

 この看板と同様な説明がある 記事 があったので、以下に紹介します

 旧西大柱
 ここに展示しているのは旧西大柱で、この柱は、かって大天守の地階床から六階床までの各階を、もう一本の東大柱とともに些か(いささか)の躊躇い(ためらい)もなく力強くつらぬき通し、木造の大きく複雑な重層構造を二本の大柱が構造主体となり、一本が百トンもの重量を支えて三百五十年もの長きにわたり大天守を守り続けてきた。
 然しその間、両大柱とも明暦二(1656)年(城主榊原忠次)に、柱や土台などの腐朽で床面に高低が生じ、このため大柱の根元を高さ2.4m、柱四面の間仕切り部分を刳り(くり)貫き、ここに幅36cm奥行もほぼ同じ大きさの栂(つが)の角材を挿入し、帯鉄巻き(おびてつまき)鋲釘止め(びょうくぎとめ)で固定するという補強工事が行われた。その後、貞享四(1684)年には、先の明暦二年に行われた修理材の上に補強材を加える工事が行われた。
 このように築城後三百五十年を大天守と共に歩んできた西大柱が、昭和大修理(昭和31年〜昭和39年)で、柱真に腐れのあることが分かり、取換えを余儀なくされ、新しい柱に後事を託して、今ここに創建材の資料として展示している。

 西大柱のこと
 旧西大柱の下方は樅(もみ)材、上方が栂(つが)材で三階床上(下方から14.5mの位置)で二本継ぎになっていたが、全長24.7mにわたり、中心部が蒸腐りを起し再用不能で今回の修理では、桧(ひのき)材で取替えることになり、旧東大柱と同様、一本材の柱にすることになった。
 ところが、原木を山から搬出途中に折損事故が起こり、修理では元通り三階床上での二本継ぎの柱になった。新しく取替えられた桧材は、下方が岐阜県恵那郡付知町の国有林から、また上方は兵庫県神崎郡市川町笠形神社から伐出されたものである。
 ここに展示したのは二本継ぎで使用されていた旧西大柱で、明暦二年と貞享四年の修理の痕をはっきりとみることができる。

 東大柱のこと
 もと、東大柱は樅材で、継手なしの通し柱であったが、今回の修理では根元5.4mを台湾桧で根継ぎして再用された。根継ぎために切断された旧東大柱の根元部(長さ5.4m、太さ横幅95.4cm 奥行幅75cm)には、明暦と貞享年間に行われた修理の痕跡が旧西大柱同様に歴然と残されている。(旧東大柱根元の切断された材は、旧状のままで現在、兵庫県立歴史博物館で展示されている)

旧西大柱の寸法

 総長 24.7m   上柱の長さ 12.4m
 下柱の長さ 14.5m (継手長さ 2.2m)
 根元の太さ 横幅 95.4cm 奥行幅 75cm
 末径 54cm角  総重量 約6トン
 

 
 旧西大柱  [TOP]
 
 
 

 
 大天守大柱展示場付近からの姫路城(2)  [TOP]
 
 
 

 
 姫路城_大天守大柱展示場(2)  [TOP]
 
 
 

 
 姫路城カの櫓  [TOP]
 

 張り出した石落とし部分が目立つ、この櫓の 記事 を以下に紹介します。

「カの櫓」は、「ワの櫓」と「土塀」で繋がり、「西の丸」跡の南東端に建ちます。
こちらは「榎下門」の守備を担い、「ワの櫓」と同様に「西の丸」跡南下の「三の丸御居屋敷」跡から見上げることができます。
「重箱型」で、特に三の丸側(棟側)から見るとその大きさが実感できる櫓です。
こちらも裾を斜めに張り出した「袴腰型」の「石落とし」が3箇所も設けられています。破風は内外とも装飾せず、「西の丸」側には出入口以外に窓は設けていません。
重文「カの櫓」(「石落とし」が目立ち、ボリューム感があります)
 

 
 姫路城の歴史(券売所の手前)  [TOP]
 

 姫路は、古代には播磨国府が置かれ、中世には府中として守護の拠点となりました。姫路城は府中に築かれた城で、築城は14世紀まで遡るという説もありますが、やはり16世紀中頃に黒田重隆・職隆父子が、御着城の端城として築いたとみるべきでしょう。
 天正8年(1580)、羽柴秀吉は播磨国を平定すると、織田信長の命令により姫路城を築きます。このとき、三重天守をもつ石垣造りの城郭となりました。城の周囲には家臣が集住し、商人を移住させて城下町も整備されました。
 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の戦功で播磨国を与えられた池田輝政は、城を大改修します。羽柴時代の縄張りを踏襲しつつ、五重天守や高石垣を築き、規模も大きくしました。また、輝政は徳川家康の娘督姫を妻としたことから、2人の間に生まれた男子は大名に取り立てられて淡路国や備前国が与えられ、池田一族の領地は約100万石にもなりました。その本拠が姫路城で、西国の豊臣恩顧の大名をけん制し、豊臣秀頼の大坂城を西側から包囲する役割も期待されました。
 姫路城が完成するのは、池田氏のあと城主となった本多忠政の時代です。元和4年(1618)には西の丸を増築し、三の丸の御殿も整備しました。池田時代には頓挫した飾磨津と城下を結ぶ運河(三左衛門堀)計画が、船場川を改修することで実現できたのもこの時期です。その後、城主は松平氏、榊原氏など親藩や譜代の大名が歴任し、酒井氏のとき廃藩置県となりました。
 明治7年(1874)、旧城内には陸軍歩兵第十連隊が駐屯し、明治29年(1896)には第十師団が置かれることになりました。姫路は城下町から軍隊の町へと変わり、第二次世界大戦中は2度の空襲を受けました。城内にも焼夷弾が投下されましたが、城の建物に大きな被害はありませんでした。
 昭和6年(1931)1月、大天守、西小天守、乾小天守、東小天守とこれを結ぶ渡櫓が国宝に指定され、昭和31年(1956)、中濠以内107haが特別史跡に指定されました。平成5年(1993)12月には、日本で初の世界文化遺産に登録されました。
 

 
 姫路城(4)  [TOP]
 
券売所付近から
 

 
 菱の門  [TOP]
 

 説明看板の 内容 を以下に示します。

「菱(ひし)の門(もん)
 二の丸の入口を固めた櫓門で、柱や扉は欅材(けやきざい)を用い筋鉄饅頭金物、八双金物を打ち、脇戸をつけ、両柱の上の冠木に、木彫の菱の紋を打っているところからこの名前が付いています。
 西に門番部屋があり、櫓の正面は連続武者窓の左右に華灯窓、裏面は連双武者窓が付いており、上の櫓の内部は3部屋になっています。
 屋根の勾配、軒四方の反転など、全国でもまれに見る桃山時代の華麗な城門と言えます。」
 

 
 菱の門(3)  [TOP]
 
 
 

 
 菱の門からの姫路城  [TOP]
 
 
 

 
 門番所(菱の門)  [TOP]
 
 
 

 
 門番所(菱の門)の説明看板  [TOP]
 

 菱の門の大きな門扉の左手(西側)には潜戸がついています。ふつうはこの戸から出入りするので、戸の左側に番所があって、適宜門番が監視しました。日常的には門扉を開けて人が出入りすることはありませんが、城主が天守に登るような時には開放します。城主はこの門で駕籠などの乗物から降りて、あとは徒歩となりました。そういう場合にはこの門の出入りを厳重にして、姫山を警備する必要がありました。

 あと、門番所が特別公開された時の 記事 も以下に紹介します。

 菱の門を正面から見ると、脇戸が設けられているのが分かります。
 現在は大扉が常に解放されていますが、当時は殿などの重要人物がお通りになる場合を除いて、大扉を開けて中に入ることは稀で、この脇戸がもっぱら利用されたと言われます。
 大扉が開いていると内部からは脇戸は見ることができませんが、脇戸から入ってすぐに開けられた小窓で入城者のチェックができるような仕組みになっています。
 この小窓の内部が「門番所」と言うわけです。
 門番所は菱の門の西側に位置しています。
 

 
 三国堀からの姫路城  [TOP]
 

 三国堀についての 説明記事 には

 まずは目の前に広がる四角いお堀。名前を「三国堀」といい、外部のどこともつながっていない溜め池のようなお堀です。これを城郭用語では「捨て堀」と呼びます。地下の湧き水が地表に顔を出して溜まっているもので、水位は日によって変化しているそうです。
 名前の由来は、秀吉の姫路城を今日の姫路城の姿に大改修した池田輝政が播磨、淡路、備前の三国を治める大大名であったことにちなむ、と言われています。
 ところで、この捨て堀はなぜここに掘られているのでしょうか? ここに大きな防御の戦略があります。 菱の門をやっとのことで突破した敵の軍勢は、門内の捨て堀に一瞬戸惑うでしょう。天守を前に、堀をはさんで道が二手に分かれているのです。
 

 
 中村大佐顕彰碑  [TOP]
 

 中村大佐についての説明記事には

 ここに名前が刻まれている中村大佐とは、明治初期に陸軍歩兵大佐であった中村重遠(しげとう)大佐のことです。姫路城が今日までその美しい姿を伝えている裏側には、実に多くの人たちの努力と苦労があったのですが、この中村大佐はその中でも第一級の働きをされた方として、ここにその業績を顕彰し、「姫路城の恩人」として称えられています。
 明治維新によって廃藩置県がなされ、全国にあった封建制度の象徴と言うべきお城は存続か廃城かの見直しがなされ、陸軍が兵営地や訓練場所としての価値を認めた全国43城以外は、明治6年の「廃城令」によりすべて廃却されました。
 姫路城は幸いにもその43城の中に入り、お城は残ることになりましたが、それは姫路城の敷地は陸軍の師団が駐屯するのに好都合だからそのまま残された、というだけのことであり、今日のようにお城の歴史的・文化的価値を認める、などという発想はまだ誰にもありませんでした。そのため建築物などは荒れるに任され、明治11年ごろまでには姫路城も取り壊しや売却の危機に瀕しました。このとき、陸軍の建築、修繕を担当する部局第四局で局長代理の任にあったのが中村重遠大佐でした。中村大佐は全国の城を視察する中で、とくに姫路城と名古屋城の文化的価値を認め、ときの陸軍卿山縣有朋に、この天下の二名城を後世に残すよう太政官に上申してもらいたい、という意見書を提出し、その結果陸軍参謀本部がこの上申を認め、とにもかくにも応急の保存工事が国の予算の中からできることとなり、のちの大規模な修理工事へとつながるのです。
 

 
 西の丸南門跡看板  [TOP]
 
 ここにはかつて西の丸への南入口の門がありました。番所付きの高麗門で、坂道の真ん中には約40cm角の礎石が残っています。坂道の西端にもいくつか礎石が残っています。
 門の東側には武者溜りがあり、門に接続して細長い建物がありました。菱の門から向かってくる敵に対して射撃をするための石打棚のような施設、あるいは番所があったのかもしれません。
 

 
 武者溜り  [TOP]
 

 土塀でほぼ正方形に囲まれていることから「武者溜り」と呼ばれています。こうした空間は、集団で軍事行動する兵士を一時的に駐屯させる場所とも言われます。菱の門の前方で石垣を張り出させた場所にあるので、菱の門や西の丸の東側に取り付こうとする敵を攻撃するための施設とみられます。また18世紀頃の絵図には、隣接する西の丸南門に接続する建物が、この空間の南側土塀に沿って描かれています。西の丸に出入りするための南入口を警備する番人などが詰める番所もあったとみられます。

 武者溜りについては以下の 補足記事 があります。

 代表的な武者溜りとしては姫路城内には2つの武者溜りがあります。

 菱の門南方武者溜り
 武者溜りとして紹介されている代表的な武者溜りです。
こうした武者溜りに駐屯している兵は、菱の門などに攻め入ってきた敵に応戦がしやすいようになっています。
 菱の門の外から、この武者溜りを見上げるとイメージがしやすいでしょう。
 左側が武者溜りがある土塀です。狭間が開けられて弓や鉄砲などで狙いやすい位置になっています。
 

 
 ワの櫓  [TOP]
 
 百陂L下の入口となっている
 

 
 西の丸広場からの姫路城  [TOP]
 
 ここはよく時代劇のロケに使われると話である。手前の桜?と思しき木々とのバランスが良い。このアングルが世間でいう姫路城という感じがする。
 

 
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