2023_姫路城_百間廊下
 写真総数:20枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 2023年10月23日、姫路城の西側にある百間廊下を歩いた時の写真です。
 

 
 西の丸_百間廊下入口  [TOP]
 

 WIKI によれば

渡櫓(長局)
 渡櫓の城外側は幅1間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約121間(約240m)に渡って連なっており「百間廊下」と呼ばれている。城外に向けて石落としや狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。城内側は侍女達の部屋があり主室と付属室などに区分され長局を構成している[49]。昭和の大修理の際に、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見されている。
 

 
 段差注意!!!  [TOP]
 
 これだけ注意喚起されていたのに、この段差にちょっとつまづいて、音をたててしまった・・・、周りの視線がちょっと痛かった。廊下というのはちょっと偽りありで、まっすぐな通路はほとんどなかったような印象です。
 

 
 姫路城の変遷  [TOP]
 


平山城から三重天守をもつ城へ

 姫路平野の中央に姫山という小さな丘陵があり、姫路城はこの山頂部に築かれた平山城です。その端緒は赤松貞範(さだのり)の時代ともいわれますが、大きな転機となったのは、天正8年(1580)に羽柴秀吉が播磨国を攻略したことです。秀吉は三重天守を築き、山腹には石垣を積んで曲輪を造りました。

白亜の姫路城完成と城下町整備

 慶長5年(1600)、池田輝政が姫路城主になると、秀吉の三重天守を取り壊して、同じ場所に五重天守と3基の小天守を築きます。縄張りは踏襲しつつも、高石垣を築くなど大改修を行い、城下町も既存の町場を取り込みながら拡大させ、全体を総構(そうがまえ)で囲い込みました。また、飾磨津(しかまづ)と城下町を結ぶ運河を建設し、飾磨津に外港としての機能を持たせました。

 行政機能を考慮した合理的な城へ

 本多忠政が城主になると、西の丸を新たに増築します。そこに嫡男忠刻(ただとき)の御殿を建てるとともに、城の防御を向上させるため百間廊下と呼ばれる長屋を築きました。また、本丸にあった御殿は、広い三の丸に移しました。戦乱の時代が終わり、行政機能の充実が必要になった時代に合わせた増改築でした。

 

 
 鉄砲穴(鉄砲狭間)  [TOP]
 
 姫路城の狭間の説明は コチラ

 狭間は土塀の壁面に見られる丸や四角、三角形の穴のことです。こちらも石落しと同様に鉄砲や弓で敵を攻撃する為のもので、縦長の長方形は弓を引く事を考慮して作られた矢狭間、他は鉄砲狭間です。
 資料によると現存する内曲輪の狭間の数は997(鉄砲狭間844、矢狭間153)だそうです。
 

 
 石落とし  [TOP]
 
 姫路城の石落としの説明は コチラ

 石落としは、櫓、城門、土塀などに設けられる防御のための設備で、下に迫る敵の監視や攻撃を行うための防御設備です。建造物の外壁や塀の一部を張り出し、床面の開口部には蓋を設けて、主に鉄砲、槍、矢等で攻撃することができます。
 

 
 陸軍施設の拠点となった姫路城の敷地  [TOP]
 

 明治4年(1871)、廃藩置県が実施され、姫路城内の三の丸に飾磨(しかま)県庁が置かれ、御殿の建物が庁舎に転用されました。徴兵令が施行されると姫路城跡が営所となり、第十連隊が配備され、城内には兵舎などの軍施設が、大手前の武家地には練兵場が建設されました。明治31年(1898)には姫路に第10師団が設置されることになり、陸軍関係施設が城跡やその近辺に集中し、まさに「軍部」を形成しました。

城郭の老朽化と保存への取り組む
 一方、城主のいなくなった城郭は老朽化が急速に進みました。幸いにも姫路城は保存されることになり、陸軍による修理工事も行われましたが、十分な修理費用が工面されていたわけではなく、根本修理はできませんでした。
 本格的な修理工事は昭和初期、文部省によって実施された「昭和の大修理」です。この修理工事は第二世界大戦の戦況悪化によって中断し、姫路市街も2度の空襲で焼き尽くされました。しかし、市街の復興と軌を一にするように、昭和25年(1950)に工事再開、昭和39年(1964)に完了しました。

イの渡櫓(明治の修理前)
 明治の大修理が行われるまで、姫路城の建物は崩壊寸前の状況だった。

城南練兵場
 姫路城大手門前の武家屋敷跡には城南練兵場が設けられ、兵士の軍事訓練が行われた。

偽装網の城
 アメリカ軍の空襲に備えて、目立つ大天守には偽装網が施された。

空襲された姫路市街
 昭和20年(1945)の空襲で姫路は焼け野原となったが、姫路城は無事だった。

素屋根(すやね)の組み立て
 昭和の大修理では大天守を解体するため、大天守を覆う素屋根が築かれた。

大棟の鯱解体
 昭和の大修理で、大天守の大棟にのる鯱瓦を解体して降ろしているところ。

柱材の折損
 新しい西大柱用の材木が木曾山中から搬出する際に折れてしまった。
 

 
 長廊下  [TOP]
 
 
 

 
 狭間  [TOP]
 
 左が矢狭間、右が銃狭間
 

 
 百間廊下からの姫路城  [TOP]
 
 
 

 
 軍事拠点としての姫路城  [TOP]
 

 慶長6年(1601)から同14年(1609)にかけて、池田輝政は姫路城の大改修を行い、建物は白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)造りとし、「白鷺城」とも呼ばれる外観に仕上げました。その一方で、畿内と西国を結ぶ軍事的要衝として、堀や土塁で城下町全体を囲む総構を築きました。内堀・中堀・外堀が螺旋状に廻り、堀で区画された3エリアをそれぞれ内曲輪、中曲輪、外曲輪としました。籠城戦のときは、兵士の数に応じて螺旋状の堀沿い効率的に配備できるようになっています。
 

 
 板廊下  [TOP]
 
 
 

 
 石落とし  [TOP]
 
 石落としは、櫓、城門、土塀などに設けられる防御のための設備で、下に迫る敵の監視や攻撃を行うための防御設備です。建造物の外壁や塀の一部を張り出し、床面の開口部には蓋を設けて、主に鉄砲、槍、矢等で攻撃することができます。
 

 
 伝統の技術 木組み 石垣 漆喰 瓦 鯱  [TOP]
 

 姫路城は、慶長6年(1601)の池田輝政による大改修により完成。明治政府の廃藩置県や第二次世界大戦の空襲など、幾度かの消滅の危機を乗り越え、大、小の天守群をはじめとする多数の木造城郭建築群が、築城当時とはほぼ変わらない姿で約400年後の今日まで伝えられています。
 姫路市では、平成6年(1994)度から同34年(2022)度にかけて「姫路城平成中期保存修理計画」を策定し、今日まで伝えられた姫路城の保存・継承に加え、伝統的な技術の保護、職人の育成を図っています。
 

 
 伝統の技術 瓦  [TOP]
 

 姫路城に使用されている屋根瓦は、1,150度の高温で約2時間から3時間の持続焼成により焼き上げられた、非常に耐久性の高い瓦です。
 軒丸瓦等には城主の家紋が施されますが、姫路城は江戸時代を通じて多くの大名が入れ替わり城主となったため、初代の池田氏から最後の城主である酒井氏にいたる各大名家の家紋を見ることができます。なお、大天守の瓦の家紋は、築城時の城主である池田氏の揚羽蝶紋、桐紋に統一されています。
 

 
 伝統の技術 漆喰  [TOP]
 

 漆喰は、外観の美しさと防火、防水の実用性を兼ね備えた壁面の仕上げ材です。姫路城では内壁、外壁用の「壁漆喰」のほか、屋根瓦の継ぎ目にも「屋根目地漆喰」が施されています。姫路城で使用されている漆喰の主な材料は、消石灰、貝灰、すさ(*)で、これらを銀杏草(海藻)から煮だしてつくった糊で練り上げて、白鷺城(しらさぎ城)とも称される白亜の姿を創出しています。
 (*)すさ。つた。ひび割れを防ぐため、切り刻んで壁土に混ぜるわら・紙・麻など。
 

 
 漆喰の基本の材料  [TOP]
 

 姫路城で使われている漆喰の基本の材料は「消石灰」「貝灰」「すさ」「銀杏草」の4種類です。近年、漆喰の仕事の減少とともに材料の製造そのものが激減し、また環境の変化などで、現在も需要のある「消石灰」を除く材料の確保が難しくなっています。

消石灰
 石灰岩に岩塩をふりかけ焼成し消化して塩焼消石灰をつくります。現在は高知県で製造したものを使用しています。

貝灰
 アカガイやカキなどの貝がらを焼成し消化して貝灰をつくります。現在は熊本県で製造したものを使用しています。

すさ
 麻の繊維を断裁したものでマニラすさ、晒すさの二種類があります。

海藻糊
 銀杏草を水で煮立て、煮汁を濾して海藻糊をつくります。

追加する材料
 漆喰の使われる場所や、重ねる層によって「すさ」の種類を変えたり、「砂」や「白砂(はくしゃ)」を加えたりします。
 

 
 千姫色彩乾漆座像  [TOP]
 
 
 

 
 千姫色彩乾漆座像(説明)  [TOP]
 

 千姫は、慶長2年(1597)、のちの江戸幕府2代将軍徳川秀忠と江(ごう)の長女として生まれました。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎますが、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で秀頼と死別。その翌年、本多忠政の嫡男忠時(ただとき)と再婚しました。元和3年(1617)、本多忠政が姫路へ転封(てんぽう)になると、忠刻とともに姫路城に移りました。
 本像は土の原型の上に砥粉(とのこ)や木屑入りの漆を厚く塗りその上に麻布を張ってその作業を繰り返し行う伝統的な技法によって作られた乾漆像です。羽子板を手に勝姫、幸千代たちの遊ぶ姿を慈愛あふれる目で幸せそうに見つめる千姫を表現したもので、容姿や服装は「本多平八郎姿絵」などからイメージして造形されたものです。
制作 色彩乾漆彫刻家 サブロウ コスギ
 

 
 化粧櫓からの男山千姫八幡宮  [TOP]
 

 男山千姫八幡宮の屋根が山の左側にある。

 八幡宮の事は コチラ にある。

 男山千姫天満宮は、姫路城の北西に位置し、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社で、本多忠刻と再婚した千姫が、本多家の繁栄を願って建立し、西の丸長局の廊下から朝夕遙拝したと言われています。城内から、遙拝できるよう東向きに造営されています。平成14年4月に社殿が新築され、唐破風造りの流麗優美な姿に生まれ変わりました。
 

 
 化粧櫓  [TOP]
 

 化粧櫓は、千姫が本多忠刻に嫁いだ際に、将軍家から贈られた10万石の化粧料の一部を使用して建設されたといわれる櫓です。
 階上には18畳、15畳、窓辺に6畳の3室をとって、天井には杉柾張り、壁面はすべて黒い木枠に紙を張ったものをはめ、隅々まで技巧を凝らした住宅様式になっています。千姫が城の西北にある千姫天満宮を遥拝する際に、休息所としてこの化粧櫓を使用したといわれています。
 武蔵野御殿(*)など、桃山時代の居館様式をもつ建物が姫路城内で消失している現在、化粧櫓の存在価値は非常に大きいものがあります。

(*)武蔵野御殿跡: WIKI によると

 本多忠刻・千姫夫妻が居住していた武蔵野御殿は金箔や銀箔を張った戸襖に千姫が幼少のころに過ごした武蔵野を偲んで一面に緑青でススキの絵が描かれていたことに由来する[49]。
 

 
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