2023年10月23日_姫路城直下
 写真総数:25枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 2023年10月23日、姫路城真下付近から姫路駅まで歩いた時の写真です。
 

 
 備前丸からの姫路城  [TOP]
 

 備前丸の説明は コチラ
 この広場全体を備前丸と呼びます。すでに何度かご説明しましたように、池田輝政が姫路城を築城したときにここに居館を建てて、藩主と家族は実際にここに住んでいました。それは3代目の光政が鳥取に転封となり姫路を離れるまで続いたようです。なお備前丸という呼び方は池田家時代にはされておらず、次の本多家時代以降にこう名付けられたようです。播磨・淡路・備前三国に君臨した西国将軍池田輝政を偲んで、あるいは後年池田家が備前岡山を本拠としたことからのネーミングではないでしょうか。
 

 
 備前丸からの姫路城2  [TOP]
 
 
 

 
 備前丸からの姫路城3  [TOP]
 
 
 

 
 備前丸からの姫路城4  [TOP]
 
 
 

 
 備前丸からの姫路城5  [TOP]
 
 
 

 
 備前門  [TOP]
 

 備前門の説明は コチラ

 井戸櫓の先、すぐ斜め向かいに右手に入る口を開けている櫓門が備前門です。これから入っていく広い曲輪、備前丸への入口の門なので現在こう呼ばれていますが、これも江戸時代に東入口門なんていう地味な呼ばれ方だったようです。 池田家が城主だった時代には備前丸に城主の居館があったことから、ここは厳重な防御体制が施されています。門扉だけでなく、柱や梁もすべて鉄板で覆われています。また、平時にはこの門が居館のお勝手口的な役割をしていたようです。江戸時代の城内を描いた絵図面を見ますと、備前丸の広い敷地の中でも、この備前門に一番近い東の端に「御台所」「御料理之間」という建物が描かれています。先ほど見た井戸櫓から、この備前門経由で台所に水を運んだのだと思います。
 門をくぐる前に見ていただきたいのは、右側の鏡柱のすぐ脇の石垣の、大きな縦長の石です。写真でもご覧いただけると思います。くりぬかれた部分が内側に隠れているのでそれとはちょっとわかりにくいですが、これは古代の石棺を転用した石垣です。ろノ門を入ったところにもありましたよね。
 

 
 石棺  [TOP]
 
 
 

 
 石棺の説明看板  [TOP]
 
 備前門の入口脇にはきれいに加工された直方体の石が縦に積まれています。これは、古墳に埋葬されていた石棺の身で、築城の際に石垣に転用されたものです。そのほかの石垣にも組合式石棺の側石や底石なども転用されています。こうした古墳の石棺が積石として多く転用されているのが、姫路城の石垣の特徴です。築城によって、姫路近辺にあった古墳がいくつも破壊されたことが想像できます。
 

 
 帯郭櫓(腹切丸)  [TOP]
 
 腹切丸とは コチラ の説明によると

 腹切丸とは呼ぶものの、実際に切腹が行われたことはないと思われる。薄暗い雰囲気と、曲輪にある井戸は首を洗う井戸を想像させるため、そう呼ばれるようになった。
 

 
 ちょっと雑な感じの石垣  [TOP]
 
 いわゆる野面積みなのだろうか
 

 
 石棺2  [TOP]
 
 
 

 
 りの門  [TOP]
 
 りの門とは、 コチラ の説明によると

 姫路城の帯曲輪(おびくるわ)と上山里丸を結ぶ場所に建つ脇戸付高麗門が「りの門」。解体修理中に軒天井板の裏面に慶長4年という墨書が発見され、姫路城内で唯一、池田輝政時代以前に建てられたことが判明しており、国の重要文化財に指定されています。関ヶ原の戦いの前年に建った貴重な建物です。
 

 
 お菊井戸  [TOP]
 
 
 

 
 お菊井戸の説明看板  [TOP]
 

 この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。
 永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職の執権青山鉄山は町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。その後、毎夜この井戸から「1枚2枚3枚・・・9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。やがて元信らが鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。
 

 
 お菊井戸当たりから見た姫路城  [TOP]
 
 
 

 
 鯱(明治時代)  [TOP]
 
 
 

 
 鯱(昭和時代)  [TOP]
 
 
 

 
 鯱(平成時代)  [TOP]
 
 
 

 
 ぬの門  [TOP]
 
 ぬの門とは、 コチラ の説明によると

 姫路城の上山里丸の大手側の出入口にあたるのが「ぬの門」。反対側(搦手側)には「りの門」が構えていますが、「ぬの門」は、姫路城随一の堅固な防御を誇る門で、「ぬの門」から上山里丸、帯曲輪を経由して本丸に至る登城ルート(下道=したみち)の途中に位置しています。
 

 
 ぬの門付近からの姫路城  [TOP]
 
 
 

 
 扇の勾配  [TOP]
 
 ぬの門近くの石垣、ストリートビューは コチラ
 

 
 扇の勾配2  [TOP]
 
 
 

 
 扇の勾配の説明看板  [TOP]
 

 高石垣の角のところを横から見ると、上にいくほど反り上がる曲線を描いていて、扇を広げたときの曲線に似ていることから、こうした曲線をもつ勾配を「扇の勾配」と呼んでいます。石垣が高くなるほど、内部から積石に大きな圧力がかかり、石垣を崩す原因になります。その力に耐えられように、裾部は傾斜を緩くしています。上部は垂直に近い急傾斜なので、敵に石垣を登らせないようになっているといわれます。
 また、石垣の角には、直方体の石を長短の辺が交互になるように積まれています。直方体の石が算木ににていることから算木積みといいます。高石垣が築かれるようになる慶長期(16世紀末から17世紀初め)に完成した積み方です。
 

 
 ぬの門  [TOP]
 
 
 

 
 三国堀跡からの姫路城  [TOP]
 
 三国堀とは何か、 コチラ の説明によると

 姫路城の菱の門を入ったところにある四角い堀が三国堀(さんごくぼり)。ここで登城道は左手へ「いの門」へと続く二の丸本道と、右手の「るの門」へと導く間道の二手に分かれますが、その要所をおさえる重要な位置に築かれた堀です。水確保という目的もあったでしょうが、戦略的な意味合いも有していました。
 

 
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