2023年_瀬戸田
 写真総数:32枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 2023年10月27日、瀬戸田港を出発して、三重塔、平山郁夫美術館等の写真をとりました。
 

 
 えびす神社?  [TOP]
 
 ストリートビューは コチラ
 しおまち商店街
 諸国廸(てき)舩中という石碑がちょっと興味深い
 

 
 黄色ポスト  [TOP]
 
 ストリートビューは コチラ
 瀬戸田といえばレモン、レモンといえば黄色ということで
 

 
 瀬戸田のしおまち商店街  [TOP]
 
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 レモネードスタンド_汐待亭  [TOP]
 
 汐街亭のHPは コチラ
 写り込む窓には、なにやら怪しいものが
 

 
 木の壁  [TOP]
 
 
 

 
 法然寺  [TOP]
 
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 橋本屋酒店  [TOP]
 
 壁部分にある広告が面白い
 

 
 平山郁夫画伯  [TOP]
 
 しまなみ海道五十三次スケッチポイント
 「耕三寺遠望_向上寺山より_瀬戸田町_郁夫 平成11年(1999)」
 

 
 耕三(こうさん)寺  [TOP]
 

 耕三寺の HP によると

 「耕三寺」は、大阪の元実業家耕三寺耕三が慈母への報恩感謝の思いを込めて建立された浄土真宗本願寺派の寺院で「母の寺」と呼ばれています。
 お母さんがわが子へ注ぐ慈しみに感謝しその縁に結ばれた家族に感謝しながら心を込めてご参拝頂けたらと思います。
 堂塔伽藍も西方極楽浄土を思い、奈良・平安時代の浄土教の寺院をオマージュし繧繝模様や丹色を取り入れ建立されました。お陰様で平成15年には、15棟もの堂塔が国の登録有形文化財に指定されました。
 耕三寺博物館は、耕三寺家の美術コレクションを、公開するため昭和28年に、国の登録博物館として開館致しました。重文、重美を多数含む仏教、茶道、近代美術を、随時公開しております。
 

 
 耕三寺・未来心の丘  [TOP]
 

 未来心の丘の HP によると

 当博物館が芸術活動の一環として、取り組んでおりますこの「未来心の丘(みらいしんのおか)」は、広さ5,000平方メートルにもおよぶ白い大理石の庭園で、世界を舞台に活躍されている彫刻家  杭谷一東(くえたにいっとう) 氏にその制作を依頼しているものです。
 ここに使用されている大理石のすべては氏のアトリエ(仕事場)があるイタリア・カッラーラで採掘し、コンテナ船で運んできています。丘にそびえ立つ大小様々な形をしたモニュメントや広場、道... 氏は制作に当たっては常に、その石のひとつひとつと対話し、また周囲の景色の形や色、風雨、光といったあらゆる自然との調和(バランス)も考えて創造してこられました。
 

 
 野草  [TOP]
 
 
 

 
 三重塔(スケッチ)  [TOP]
 
 
 

 
 三重塔  [TOP]
 
 
 

 
 三重塔(1階部分)  [TOP]
 
 
 

 
 国宝_向上寺三重塔  [TOP]
 

 曹洞宗向上寺は、臨済宗大本山仏通寺関山、仏徳大通禅師の開基によるもので応永10年(1403年)に生口(いくち)島地頭・惟平(これひら)の頃に向上寺の前身向上庵が建てられ応永21年(1414年)ごろには、仏通寺の末寺として独立しました。
 三重塔は、藤原朝臣の作で、大檀越(だいだんおつ)、生口守平、檀那信元、信昌として永享4年(1432年)正月から6月にかけて完成し、10月にその供養を行いました。
 塔の構造は、方三間、三重の塔婆本瓦葺で、九輪先端までの高さは、19メートル52センチを計り、全体に和様を基調としていますが、初重(しょえ)を扇たる木、花頭窓にするなど細部にかなり濃厚な唐様の手法がとり入れられています。ひじ木鼻や、すみ木持送りの彫刻なども巧みにつくられ、四隅の親柱の飾り付けは、逆蓮華で珍らしくわら座、須弥檀も意匠として特異なものです。
 昭和38年に解体修理を行いましたが、用材の大部分は建立当初のもので禅宗寺院の塔として、建築史上、貴重なものです。
 大正2年に、国宝指定を受けましたが昭和26年法律改正により、一旦、重文指定になり、昭和33年2月8日付で、新たに国宝に指定されました。
 

 
 望月内相登山記念  [TOP]
 

 望月圭介内務大臣の WIKI によれば

 望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日〈慶応3年2月27日〉 - 1941年〈昭和16年〉1月1日)は日本の政党政治家。広島県出身[1]。
 衆議院議員当選13回[1]。自由党から立憲政友会に所属した生粋の政友会党人[2]。政治生命をほぼ党のために尽くし裏方に徹し[3]、特に調停役として手腕を発揮した[4]。原敬総裁により幹事長に抜擢され[1]、高橋是清総裁時代に3度、計4度幹事長を務めた[5]。閣僚は3度、田中義一内閣の逓信大臣のちに内務大臣、岡田内閣の逓信大臣[1]。1928年昭和天皇即位の礼の時の内相(警備最高責任者)であり、1936年二・二六事件の時の閣僚である。
 

 
 展望台への道  [TOP]
 
 
 

 
 平山画伯スケッチ  [TOP]
 
 
 

 
 平山画伯スケッチ(拡大)  [TOP]
 
 平成11年(1999)
 

 
 観音山頂上展望台から  [TOP]
 
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 天理教生口島分教会  [TOP]
 
 
 

 
 大墓(おおばか)_徳本上人名号碑_説明  [TOP]
 

 大墓とよばれていますが、墓ではなく、南無阿弥陀仏の名号を刻んだ碑で、石仏の一種として建立されたものです。
 弘化4(1847)年、当地の豪商、片山彦右衛門??を願主として作られました。
 独特の書体で書かれた名号は、江戸時代後期、???として徳川将軍家の尊崇厚かった紀州(現在の和歌山県)出身の浄土宗の高僧徳本上人(1758-1818)の手になるもので、その高弟、本励(ほんれい)上人(?-1840)によって当地に招来されたものと考えられます。
 本励上人は、甲立(こうだち)(現在の安芸高田市甲田町)の「唯称庵(ゆいしょうあん)跡のカエデ林」(広島県指定天然記念物)のカエデを植えた人物として知られています。願主・片山彦右衛門の妻(弘化3年歿・甲立の三上氏の娘)の甥にあたり、徳本十大弟子の一人に数えられるほどでしたが、耳が不自由だったのでこれを固辞し、故郷に帰ったと言われています。晩年3か年を片山家の庵室白露庵で過ごし、当地で歿しました。墓は法然寺の片山家墓所内にあります。
 本碑敷地は戦後荒廃していましたが、平成元年になって商店主ら町の有志が中心となって働きかけ、70余名の喜捨によって整備されました。
 

 
 大墓(おおばか)_徳本上人名号碑  [TOP]
 

 徳本上人の 解説ブログ によれば

 徳本上人(1758〜1818年)は、江戸時代中期、日高町(旧志賀の庄久志村)に産まれました。
 4歳の時から念仏を行い27歳で出家。想像を絶する荒修行を続け、40歳を過ぎてから布教のため日本各地を行脚。
 11代将軍家斉公の母君が危篤の折、江戸城に登城し、念仏を授けたところ数日のうちに回復。帰依者は皇族・貴族・将軍家・諸大名から一般庶民にまで及び、参詣者が一日数万人にのぼることも。
 徳本文字とよばれる特徴的な「南無阿弥陀仏」の名号は丸みを帯び、終筆がはねあがる。
 上人は念仏を唱える者に数え切れないほどの名号を配られました。
 全国に千基以上残る石碑(名号碑)は活動の広範さと、民衆信仰の深さを裏付けています。
 徳本さんは説法に和歌を取り入れたことでも知られ、晩年、信州地方を旅しており、小林一茶が徳本さんを詠んだ句も14首あります。

 

 
 岡哲商店  [TOP]
 
 食べログは コチラ
 

 
 岡哲商店(拡大)  [TOP]
 
 藤岡弘さんのサイン・女優の藤田弓子さん・NHK特別番組プライムS「海と生きる島の人々」でビーフコロッケTV撮影・競輪の中野浩さん・大阪のTV番組せやねん・よーいどん・アサパラ・旅ぷら・
 

 
 瀬戸内鮮魚料理_ちどり  [TOP]
 
 瀬戸田名物_たこ料理
 ちどりのHPは コチラ
 

 
 耕三(こうさん)寺_耕三寺博物館  [TOP]
 
 耕三寺の中身については コチラ のブログに詳しい。日光東照宮陽明門、平等院鳳凰堂を模した建物がある。
 

 
 黄色の丸ポスト  [TOP]
 

 中国新聞の 記事(2021/3/27) によると、2021年3月にレモン色となったらしい。

 尾道市瀬戸田町で27日、瀬戸田小の児童や住民約30人が地元の郵便ポストを特産品のレモンの色に塗った。町内の子どもたちや観光客にレモンの産地としての印象を強めてもらおうと、市や地元郵便局、尾道しまなみ商工会青年部瀬戸田地域委員会が企画した。
 ポストは、瀬戸田港と耕三寺博物館を結ぶ人通りの多い「しおまち商店街」一帯の計4本。この日は、瀬戸田郵便局前などに立つ2本を、地元塗装会社の従業員たちから指導を受けながら黄色いペンキで塗っていった。
 

 
 オブジェ  [TOP]
 
 耕三寺博物館分館_金剛館前の中庭にある
 

 
 耕三寺博物館  [TOP]
 
 天主閣?
 

 
 耕三寺潮聲閣(耕三寺博物館内)  [TOP]
 

 関連 ブログ によれば

「耕三寺博物館の敷地内に残る、昭和初期の邸宅建築。かつては数多くあったはずの木造邸宅の名品は戦災や老朽化でほとんどが姿を消し、県内では本作を含めて数棟が残るのみである。もちろん島嶼部では唯一無二の存在だ。
 潮聲閣は、福岡県直方(のおがた)出身の実業家金本福松(1891-1970)が、余生を送る母親のために、母の故郷である瀬戸田に建てたものである。
 配置計画を見ると、洋館(応接室など)と書院造の和館(生活の場)が前面道路に平行に並んでおり、同時期の邸宅としては一般的なスタイル。見学は和館裏側の勝手口から入る(写真#14)ので、唐破風が付いた正面玄関は室内側からしか鑑賞できないが、屋外だというのに天井は折上格天井(しかも絵入り)というのに驚かされる。(写真#4)
 

 
 平山郁夫美術館  [TOP]
 
 当美術館のHPは コチラ このHPの中に「平山郁夫が描いた世界」という コーナー があり、あたかも、この美術館で鑑賞したかのような気分になるので、一度、試してみてください。
 

 
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