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| 初めに
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2024年7月20日足利学校跡地を歩いた時の写真です。
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<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ----------------------> |
| 足利駅
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(1)足利駅
(2)EF60 123形直流電気機関車 |
| 毛織機
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(1)手織機
(2)織機は、経糸(たていと)を並べておいてぴんと張り、そこに緯糸(よこいと)を繰り返し通して追っていきます。 こちらの毛織機は、一番簡単な平織りができます。 ☆織機の基本動作 次の3つが、織機の基本的な動作となっており、これを何度も繰り返して織物を完成します。 1.ペダルを踏み、経糸を上下に分けて、その間を緯糸が通ることができるよう開口する。 2.開口した経糸の間に、ひ(ひ、シャトル)につないだ横糸を入れて反対側へ届かせる。 3.通った経糸を筬(おさ、リード)で手前へ打ち、経糸と緯糸を組み込む。 この動作を左右交互に繰り返し行います。 |
| 大成殿
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(1)大成殿
(2)史跡足利学校 大成殿(国指定史跡に含まれる) 現存の大成殿は、寛文8年に造営されたもので、木造の大成殿としては日本で最も古いものといわれています。聖廟又は孔子廟ともいわれ、内部には、孔子座像と学校創建説の一人、小野篁公などが収められています。 |
| 法楽寺
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(1)法楽寺
(2)法楽寺 本堂(慈照寺銀閣を模した建物) 法楽寺は、三代義氏公が建立した寺で、現在も墓所に円形に石が並べられ、墓石とともに祀られている。本堂は、1983年に再建されたもので、京都の慈照寺銀閣を模して建てられています。 |
| 四代秦氏公
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(1)四代奏氏公が祀った「叶権現」白蛇が現れたという
巨岩の割れ目に祠が祀られる 最勝寺 (2)四代奏氏公が屋敷の南門に坂東武者を集めたという故事に由来する節分鎧年超 鑁阿寺 |
| 足利学校
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足利学校遺跡の石塔と孔子像
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| お市・足利義輝
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信長の野望 新生 ゲーム
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| 史跡 足利学校跡
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(1)史跡 足利学校跡
(2)入徳門 (3)足利学校に入る最初の門です。 天保2年(1831)鑁阿寺安養院の火災により類焼、同11年(1840)頃修築、それも腐朽し、明治42年(1909)に裏門を移転修築したと伝えられています。 「入徳」とは「徳に入る」という意味で、道徳心を習得する所、すなわち学校に入るという意味です。 扁額「入徳」は、紀伊徳川家第11代藩主大納言徳川斉順(なりゆき)の書です。 |
| 黒色の倉庫
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| 学校門
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| 孔子像
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| 楷(楷樹)
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栃木県指定天然記念物
楷(楷樹) <ナンバンハゼ>ともいいます。 大正4年(1915)に、孔子のお墓がある孔林(こうりん)(中国・山東省曲阜)から初めて日本に種子がもたらされました。 成長した株は、多久聖廟(たくせいびょう)(佐賀県)、湯島聖堂(東京都)など、儒学のゆかりの地に植えられました。 足利学校にある楷の木は、大正11年(1922)に植えられたものです。 |
| 字降松
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(1)字降松
(2)足利学校の第七世庠主(校長)九華和尚のころのことです。 学生が読めない文字に出会ったとき、紙に書いてこれを廟前の松の枝につけておくと和尚が見て、ふり仮名や注釈をつけてくれたので、字降松と呼ぶようになりました。 当時学問を志して、足利学校に学んだ学生と庠主との交流が偲ばれ、心温まる足利学校の伝説です。 |
| 孔子廟
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(1)孔子廟(聖廟)門
(2)孔子廟(聖廟) (3)孔子廟は、儒学の祖の孔子を祀る廟です。大成殿と杏壇門・築地塀からなります。 大成殿は、寛文8年(1668)の建造で、正面5間、側面6間、屋根は寄棟造で、本瓦葺、周囲に裳階(もこし)と呼ぶ庇を付けています。 正面には、孔子座像、右側には小野篁(たかむら)座像を安置しています。 杏壇門は、明治25年近隣の火災で焼失しましたが、明治33年に再建されました。毎年11月23日には、この聖廟で、孔子とその高弟を祀る釈奠(せきてん)が行われます。 |
| 孔子座像
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(2)木造孔子座像
室町時代 天文4年(1535) 県指定文化財 寄木造 玉眼嵌入 像高 78センチ 頭巾をかぶり儒服を着けた像で、この姿は「行教像」といわれます。 像の内側に墨書きがあり、当時の足利庄代官・長尾憲長(1503-1550)など造像に関わった人の名や、学校の様子が記されています。 日本最古の孔子の彫像として大変貴重です。 |
| 小野篁座像
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(2)木造 小野篁座像
江戸時代延享3年(1746) 市指定文化財 寄木造 玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう) 像高 71.5センチ 小野篁(802-852)は、平安時代の公卿・歌人で、学問にすぐれ、野相公とよばれた人で、足利学校の創建者とする説があります。 本像の制作にあたり、小野篁の子孫がお金を足利学校に寄付した記述が『足利学校記録』にあります。 |
| 方丈
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(1)方丈は6部屋からなり、儀式や行事に使われました。
足利学校史跡内マップ によると 「 梁間(はりま)11m、桁行(けたゆき)17m、軒桁までの高さ5m、外側の柱から茅の先(軒先)までが2.8mあります。また地上から大棟(おおむね)までの高さは13.8mです。寄棟造りで屋根は茅葺き、禅宗寺院の方丈形式であるのが特徴です。 」 (2)須弥壇(方丈のなかにある) (3)方丈、庫裡、書院等 主屋は、左の方丈と右の庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物です。 方丈は、六部屋からなり、儀式や行事に使われました。 庫裡は、竈のある土間、板敷の台所、畳敷の四部屋からなり、日常の生活空間でした。 書院には床、棚、付書院が設けられ、庠主(しょうしゅ)の接客の場所などに用いられました。 屋根は方丈と庫裡が茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺です。 (宝暦年間の姿に復元) |
| 南庭園
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(3)南庭園
足利学校には、方丈の北と南それぞれに池のある築山泉水庭があります。 この池は、湧水をたたえた池の入り組んだ水際と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。 三つの峰をもつ築山は比較的高く、池に映えてよく調和しています。 発掘調査の結果と江戸時代の絵図によって復原しました。 (江戸時代中期の姿に復原) |
| 海軍大将東郷平八郎手植 月桂樹
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海軍大将東郷平八郎手植 月桂樹 明治39年12月23日
※日露戦争とは1904年(明治37年)2月から1905年9月にかけて大日本帝国(日本)とロシア帝国との間で行われた戦争である。 よって、明治39年とは日露戦争が終わったあとである。 |
| 宥座之器
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(2)宥座之器(ゆうざのき)
針生清司作 銅製 高さ 210.0cm 奥行 125.0cm 幅 82.0cm 平成24年(2012) 史跡足利学校所蔵の『欹器図(ききず)』を参考にして、群馬県館林市在住の針生清司氏(現代の名工)が制作し、足利市に寄贈されたものです。 (3)欹器図(ききず) 史跡足利学校蔵 紙本墨刷 縦56.2cm 横77.4cm 江戸時代 寛政3年(1791) 孔子が魯の国の桓公(かんこう)廟に行くと、金属の器である欹器(きき)(斜めに立つ器の意)があった。役人に問うと「座右の戒めをなす器である。」という。孔子は「宥座(ゆうざ)の器は、水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れたときはひっくり返ってしまうと聞いている」と述べると、果たしてその通りだった。孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めた。 画面左下の銘文によると、この画題を好んだ北越の人内藤北涯が模刻し、幕臣で文学者として活躍した太田南畝(1749〜1823)がそのことを記した作品である。 |
| 庫裡
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(1)庫裡
(2)釡 飯を炊いたり湯を沸かしたりする金属製の用具です。鍋よりも深く造り、普通は腰につばがあります。 こちらに設置されている釜は縦(深さ)43cm×横58cmの1斗5升炊きです。 1斗は100合、1升は10合ですので、150合炊きということになります。 |
| 椀用ポンプ
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(1)椀用ポンプ
(2)椀用ポンプ 明治時代以降 明治17(1884)年頃から量産され始めた国産の椀用ポンプ(ガッチャンポンプとも呼ばれた)で、側面に「富田さく筒製作所」と明記されている。 龍吐水(消火に用いる手押しポンプ)の進化したもので、人力によりシリンダー内に入った水を圧縮して押し出すタイプのもの。 「足利学校」と記されていることから、明治6年に開校した足利郡足利町足利学校(後の東小学校)で使用された消火ポンプと思われる。 |
| 衆寮
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(1)衆寮
(2)写本作業 (3)衆寮 衆寮は、僧房または学生寮です。 学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。 桁行8間、梁間2間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張りです。 内部は、6畳の間に、一間の土間がついて一部屋になります。 それが4部屋続く長屋となっています。 (宝暦年間の姿に復原) |
| サエンバ(菜園場)
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サエンバ(菜園場)
絵図にサエンバとあるのは「菜園場」のことと思われます。 ここでは、日々の食膳に必要な材料となる大根、ごぼう、その他の野菜、栗や柿などの果樹、茶や薬草を栽培し、ときには花なども楽しんだと思われます。 (江戸時代中期の姿に復原) |
| 裏門
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裏門
足利学校の門はいくつかありますが、正門は学校門で、日常使う門が、この裏門でした。間口8尺の薬医門で、屋根が切妻造の茅葺です。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと延びている様子が分かりました。 (宝暦年間の姿に復原) |