2024年_岩瀬浜駅
 写真総数:76枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 2024年4月7日富山県岩瀬浜駅近くの歩いたときの写真です。豪華な回船問屋が見どころです。
<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ---------------------->
 

 
 富山駅踏切のない通路  [TOP]
 
向こうに路面電車が見える、電車と人の信頼関係の強さがうかがえる
 

 
 岩瀬浜駅構内  [TOP]
 
(1) WIKI によれば
 岩瀬浜駅(いわせはまえき)は、富山県富山市岩瀬天神町にある、富山地方鉄道富山港線の駅である。当駅は同線の終着駅でもある。駅番号はC39。
 1924年(大正13年)7月23日:富岩鉄道富山口駅 - 当駅間開通と同時に岩瀬港駅として開業する[3][4]。貨物のみ取扱う[3]。
 1938年(昭和13年)1月1日:岩瀬浜駅に改称する[3][5]。
 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる[5][6]。
 2006年(平成18年)
3月1日:西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅としては廃止となる[3][7]。
4月29日:富山ライトレールの駅として再開業する[2][3][7]。
 2020年(令和2年)2月22日:富山ライトレールが富山地方鉄道に吸収合併することに伴い、再び富山地方鉄道の駅となる[18][19]。

(3)北前船
 江戸時代から明治時代にかけて、大阪から瀬戸内海、日本海、北海道を往来していた大規模な買積船。行きは大阪の酒や木綿、瀬戸内の塩、北陸の縄、米などを北海道に運び、帰りは北海道産の昆布や鮭などの海産物を運んでいました。岩瀬町はその中継地の一つで、町には数多くの廻船問屋が建ち並んでいました。富山の売薬産業が発展したのも北前船のおかげ。琉球が中国から輸入した薬の原料を薩摩藩を通して仕入れ、北前船で富山に運んでいたのです。

 

 
 岩瀬まちあるき看板  [TOP]
 
(1)岩瀬浜駅の傍にある看板

(2)岩瀬地区の歴史
 江戸時代初期に日本海を行き来する北前航路が生まれ、江戸期から明治期にかけて日本海沿岸地域では廻船問屋が多く営まれていました。
 岩瀬地区は、寛文10年(1670)、加賀藩の米を収納する御蔵の設置以降、米の積出港として発展していきました。また、江戸時代は主に大坂・瀬戸内・山陰地方との交易が行われ、江戸後期には松前(北海道)交易も始まりました。明治時代にかけて交易はさらに盛んとなり、五大家(馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家)を中心とした廻船問屋が建ち並び、現在も残る港町が形成されました。
 明治六年に大火があり、それにより約千戸あった家屋の内、五大家を中心とした伝統的建築物を含む650戸が焼失しました。しかし、当時は廻船業が全盛を迎えており、豊富な財力をもってまちの修復に取り掛かったことによって、岩瀬独自の家屋様式「東岩瀬廻船問屋型」家屋が再建されました。また、明治後期には、岩瀬独自の「防火土蔵造り型」家屋も考案され、当時の優れた建築枝術で家屋が立ち並び、岩瀬の街並みが形成されました。
 廻船問屋の多くは岩瀬大町・新川町通りを表構えにし、河川を常に背てられています。これは背後に流れる神通川から直接船をつけることができたためといわれています。現在の岩瀬の街並みは、明治期に建てられた家屋群を維持・保全してきた街並みであり、多くの先人の努力による貴重な遺産といえます。
 廻船問屋とともに岩瀬地区は独自の文化を育んできました。

 

 
 岩瀬まちあるき看板  [TOP]
 
(1)廻船問屋
 The Old Shipping Agency
 「廻船問屋」とは、一般に荷主と船主との間で荷物の取次を行う業者のことをいいます。
 北前船の場合、船主自らが荷を買い入れ、自船で遠隔地へ運び販売も行う事で収益を得る「買積船(かいづみせん)」であり、そのため、北前船主は、『廻船問屋』としても活躍しました。
 岩瀬地区の廻船問屋は、交易で得た資金によって、富山の産業の近代化や教育の振興などへも大きく貢献しました。

(2)東岩瀬廻船問屋型家屋については コチラ
 岩瀬(いわせ)は、江戸時代から明治時代にかけて日本海で活躍した北前船(きたまえぶね)で栄えた港町です。この地区にある回船問屋(かいせんどんや)の建物は、日本各地にある町屋の中でも「東岩瀬回船問屋型町屋」と呼ばれています。建物は間口が広く力強い印象がありますが、一方で細かな部分には繊細な装飾が施されています。
 岩瀬は江戸時代に加賀藩主が参勤交代の際に通る浜街道でした。通りには、明治時代初期に栄えた米田家、森家、馬場家、佐渡家、宮城家などの回船問屋が立ち並んでいます。特に大町・新川通りには豪壮な家並みが残っていて、当時の面影を現在にとどめています。また、家々の出格子は全国的にも珍しい竹のすだれを使ったもので、「スムシコ」と呼ばれています。

 伝統的町屋型家屋
 コチラの ブログ に詳しく紹介されています。
防火土蔵造り型家屋
 コチラの ブログ に詳しく紹介されています。

 

 
 ノーベル街道  [TOP]
 
(1) 岩瀬カナル会館 脇の看板

(2)別名、 ぶり・ノーベル出世街道 ともよばれるとのこと、
 国道41号の富山から高山までの約90kmは、江戸時代、東岩瀬(富山市岩瀬)で水揚げされたブリを、飛騨・信州へ運んだルートとほぼ同じとなっています。
 また、この区間は日本でこれまでノーベル賞を受賞した12人のうち、白川英樹さん(化学賞)、利根川進さん(医学生理学賞)、小柴昌俊さん(物理学賞)、田中耕一さん(化学賞)、梶田隆章さん(物理学賞)の5名にゆかりがあります。 国道41号は、沿線の住民の方々にとって生活に欠かせない道路であることに加え、遠方の方も、豊かな自然や様々な地域・イベント活動等にふれることが出来る道です。

シルバー産業新聞 によると、
 富山・岐阜、愛知を結ぶ国道41号線は古くは飛騨街道と呼ばれ、富山湾のキトキトな(新鮮な・富山弁)ブリを運んだ「ブリ街道」でもあった。近年、この街道沿いに縁のある学者のノーベル賞受賞が相次ぎ、「ノーベル街道」の尊称を戴くようになった。利根川進さん、田中耕一さん、梶田隆章さん、小柴昌俊さん、白川英樹さんの足跡を辿る。

「ノーベル街道」の受賞者たち
 今年9月には生理学医学賞に京都大学の本庶佑さんの受賞が決まったが、26人の日本人ノーベル賞受賞者のうち、5人が「ノーベル街道」につながっている。富山県から岐阜県の順で説明する。
 まず、遺伝学・免疫学の分野で同賞を受賞(1987年)した利根川進さんが小学校から中学校まで富山市で過ごしている。
 次に、本紙別記事「澤柿先生 子どもの創造力を伸ばす」でご紹介する田中耕一さんは、タンパク質などの生体高分子を簡単に特定する手法を発見し、新薬開発に革命をもたらしたとして、2002年に化学賞を受けた。高校まで富山市で過ごした。
 3人目。2015年の物理学賞受賞の梶田隆章さんは、95年〜99年富山市に住み、隣の岐阜県神岡町(現飛騨市)の「スーパーカミオカンデ」で、宇宙の超新星爆発で生まれたニュートリノの質量の存在を明らかにしている。
 83年から同装置を使ってニュートリノを発見したのは、4人目の小柴昌俊さんで、田中さんと同じく2002年に受賞した。
 最後の5人目は、2000年にノーベル化学賞を受けた白川英樹さん。電気を通すプラスティックを開発した。岐阜県高山市で小学3年から高校3年まで過ごした。

教育県富山の底力
 富山駅近くにある富山県教育記念館(富山市千歳町)の伏黒昇館長は、「ノーベル街道」を生んだ富山県の教育熱心な県民性をつぎのように説明する。
 「富山県は立山連峰から富山湾まで距離が20km程度で、常願寺川や黒部川、早月川など河川の氾濫が相次ぎ、貧しい地だった。それが明治以降、水力発電によって負を富に変えて、飛騨街道沿いに紡績工場ができ、それまで出稼ぎ県だったのが、出稼ぎ先に変わっていった。」
 「江戸時代から庶民は教育熱心で、寺子屋は460校あり、富山・石川・福井の北陸3県の中で、決して少なくはなかった。貧しさ故に、寺子屋では商いに必要な算数や漢字を教えるところが多かった。こうした土壌が、保守的でありながら、その一方で先進性を生み、両者の相まった中庸な気質が生まれてきた」

 

 
 岩瀬運河  [TOP]
 
(1)岩瀬カナル会館そばの岩瀬橋から、山側(東側)を撮影、ボート置き場がみえる。
(2)岩瀬橋から海側を撮影、赤い橋は大漁橋(歩行者専用)
(3)運河の左岸から大漁橋を撮影
 

 
 岩瀬運河  [TOP]
 
(1)運河沿いのオブジェ、ぶりの頭?画像検索すると、全国に似たようなオブジェがでてくるので、既製品なのかもしれません。
(2)富山消防局の船
 

 
 トマソン?  [TOP]
 
(1)戸があるだけ、後ろに何か隠しているのだろうか、
(2)引いてみると隣の建物を取り壊したあとにわざと残したように思うが、意図がよくわからない、これはトマソンなのかしらん。
 

 
 富山港展望台  [TOP]
 
(1)展望台、 ブログ によると
 らせん階段をぐるぐると登ると、目の前に広がる富山港や岩瀬の素晴らしい町並み!
 富山港に面した海沿いに建つ、地上から24.85mの展望台、「富山港展望台」です。
 ユニークな形の外観は、琴平神社に建てられた「常夜燈」をモチーフにしています。琴平神社の境内にある「常夜燈」は、北前船の時代には燈台の役目を果たしていたと言われています。船の安全と港の繁栄を願ってこのデザインになりました。
 展望台内に常設されている双眼鏡をのぞけば、晴れた日には立山連峰や遠く能登半島の雄大な景色も一望できます。素晴らしい景色と共に、夕焼けや夜景も楽しむことも。ゆったりと雄大な海を眺める時間はいかがでしょうか。

(2)周辺にあった碇

(4)目的
 この展望台は、港湾の利用促進を図るため、富山市の海の玄関口である富山港のシンボル的施設として、海とのふれあいの場や県内外との交流に活用されるよう、伏木富山港(富山地区)港湾環境整備事業(緑地)の一環として、昭和60年11月に建設されました。
デザイン
 この展望台の形状は、北前船の時代に活況を呈していた東岩瀬湊(富山港)の歴史や文化に配慮して、当時、港の守護神として船方衆の尊敬を集めた荒木町金刀比羅神社(琴平神社)の境内に建つ「常夜灯」をモデルにしています。

 

 
 富山港展望台付近  [TOP]
 
(1)巨石門?
(2)藤棚のトンネル
(3)屋根の飾り
 

 
 諏訪神社恵比寿社(カネヤの宮)  [TOP]
 
(1) ブログ によると
諏訪神社恵比須社は,富山ライトトレールの競輪場前駅の北西700メートルに鎮座する。「カネヤの宮」と称す。
文政二年(1819),ここより南東400メートル岩瀬梅本町の巒昌寺(らんしょうじ)の前に勧請された。
祭神は建御名方神で,相殿で水波能売命,速秋津日子命,速秋津姫命を祀る。
現在の社地には,初め諏訪神社が鎮座したが,その諏訪神社が文政十年(1827)に別の場所に移転したため,その跡地に当社を遷し,現在に至る。
 

 
 岩瀬エリア  [TOP]
 
 
 

 
 岩瀬エリア  [TOP]
 
(1) ブログ によると
2019年9月にオープンした桝田酒造店の新しい店舗 沙石(させき)さん
オリジナルの桝を購入しお好みの満寿泉(ますいずみ)を試飲出来ます(有料です)
(2)御休処 政太郎 食レポは コチラ
(3)久保商店四十七銀行跡地
四十七銀行の WIKI によれば第四十七銀行(だいしじゅうしちぎんこう)は、明治期に千葉県に国立銀行として設立され、その後富山市に本店を移転して、私立銀行に転換した北陸銀行の前身の一つである[1][2]。
(4)(3)の玄関部の拡大
 

 
 トンビ?  [TOP]
 
 
 

 
 岩瀬エリア  [TOP]
 
(4)二階建ての面白い建築
 

 
 旧馬場家住宅  [TOP]
 
(3)馬場家(旧馬場家住宅)の ブログ によれば
 馬場家は、江戸後期から活躍した北前船主・廻船問屋の家です。当家は「岩瀬五大家」の筆頭に挙げられ、北陸の「五大北前船主」のひとつにも数えられています。
 明治中頃には汽船経営に舵を切り、事業の近代化にも成功しました。また、馬場家9代当主道久の妻はるは、旧制富山高等学校設立のために多額の寄附をしたことでも知られています。
 当住宅は明治6年の東岩瀬の大火の後、以前の部材を用いて建てられたといわれております。東岩瀬町の中でも最大規模の住宅で、長さ30メートルのトオリニワ(屋内通路)や、33畳ものオイ(広間)など見どころも多いです。
 主屋のほかに、前蔵・壱番蔵・弐番蔵・米蔵・西門・西塀も現存し、廻船業が盛んであった頃の面影が残っています。
 平成28年8月に国の登録有形文化財となりました。
 

 
 北前船回船問屋森家  [TOP]
 
(3)北前船回船問屋森家
 この森家は、四十物屋千右衛門といい仙で表わし通称あいせんと呼ばれ、文政の頃より北前船で栄えた東岩瀬の回船問屋の様式を残している屋敷です。
 特徴は、当地から積出す船荷のため玄関から裏の船着き場まで、通り庭(土間廊下)が通じ、表から母屋・台所・土蔵と並びます。母屋のオイには炉が切られその部屋は天井まで吹き抜けの構造で梁が井形に走り(当地では「枠の内」と言う)明り窓が取ってあります。ミセは帳場で二階が番頭の居間になっております。この建物は、明治11年に再建されたもので、建坪80.2坪、延坪112.5坪あります。
昭和59年 富山市

(4)回船問屋森家と古い町並み
 森家は、屋号を四十物屋(あいものや)といい、当主は仙右衛門を名乗った。
 四十物屋仙右衛門家は、江戸末期から明治にかけて、北前船の船主・肥料商・諸国の回船業者と取引のあった回船問屋であった。明治期には金融業に進出して大いに活躍した。
 家屋は、明治6年の岩瀬大火で焼失し、現在の建物は明治11年に建てられた。森家の建物は岩瀬の古い町屋の形を残しており、国に重要文化財に指定された(平成6年12月)。
 大正時代まで家の裏は神通川の船付場であった。玄関から船付場まで「通り庭」と呼ばれた土間廊下が続き、土間廊下に沿って母屋、台所、庭、道具蔵、米蔵がつづいた。森家の肥料蔵は別にあった。母屋のオイには囲炉裏が切ってあり、商取引の場であった。オイの吹き抜けは、梁が井型に組まれた見事な建築美を見せている。

 森家のある大町の西側は、神通川を背にして船主、肥料商の大家が軒を並べていた。岩瀬のメインストリートは、江戸時代には加賀藩主、大聖寺藩主の参勤交代の往還道であった。
 春には、肥料を仕入れる人が岩瀬に押し寄せた。秋には、二百近い村々から藩の御蔵や町蔵へ米を納める人々が馬に俵をつけて岩瀬へ集まった。
 また、街道の宿場であったので他国からの旅人のための宿屋、茶屋、食べ物屋で賑わった。明治には馬車や荷車で肥料を運ぶ人達で大町通りはごったがえした。町にはこれら近在の百姓への肥料だけでなく、農具や生活に必要な品物を売る店も大繁盛した。

 

 
 北前船(バイ船)  [TOP]
 
(1)北陸銀行

(3)北前船
 岩瀬大町公園にある北前船の像

(4)北前船
 江戸期から明治期にかけて蝦夷ー上方を結ぶ日本海を航行した北前船(※バイ船)は、日本海側の船主の持船であった。
 このモニュメントは、明治中期に造られた北前船を模したもので、千石積船の約1/12の縮尺となっている。
 長さ 2.0m
 高さ 1.7m
 幅 0.7m
 昭和62年12月
※バイ船
 日本海沿岸では北前船とは呼ばず「千石船」「弁才船[べざい]」、また越中地方では一度の航海で倍の儲けを得られることから「バイ船」と呼んだ。船の大きさは通常500石から1,500石で、なかには2,000石近い大型船を持ち大小200艘もの船団を擁する大船主もいた(千石船は積載量150t)。

 

 
 大町通り(旧北陸道)  [TOP]
 
歴史街道_旧北陸道_富山市_八幡-岩瀬市街地 によると
 岩瀬の町並に入る道に二筋あり、一つは千原崎村を経て南から町並みに至る道。もう一筋は、壱番丁の神通川縁即ち西側から町並に入る道である。
 当時(寛文二年以降)東岩瀬村は町建ての許された宿駅である。駅馬が一八匹(伝馬銀五十五匁)配備され御蔵を中心に維持された。
 東岩瀬村は前田候参勤のための御旅屋が、江戸時代全期を通じて置かれていた。東岩瀬村は宿駅であり商業都市であるとともに加賀藩における枢要な港で、北前船による北海道交易の拠点でもあり、豪商が軒を連ねていた。明治21年の市制、町村制の施行で、東岩瀬村は東岩瀬町・西宮村が合併して東岩瀬町となったが旧街道筋、殊に大町は未だに明治当初の、格子窓、ウダツをあげた等の家構えを残した家があり多く残っている。
 

 
 裏通りの建物  [TOP]
 
(1)つりや
WEBサイト によれば
 つりや東岩瀬TSURIYA HIGASHI IWASE
 富山市の中心部からライトレールで20分ほどの場所にある港町 岩瀬地区。かつて北前船が寄港する交易地として栄え、通りには、国の重要文化財に指定される廻船問屋の伝統的家屋や土蔵など、当時の繁栄を残す街並みとなっています。この度、つりや東岩瀬 は、昭和初期に当時診療所として使われていた建築をリノベーションし、1階に、物販・喫茶スペース、2階には一日一組にお貸し出しする宿場として、岩瀬の地にオープン致しました。街並みに溶け込みながら、富山の魚食文化を始め様々な食の愉しさを発信する場所を目指します。富山旅のお立ち寄りのお店として、また富山の宿場としてご利用いただけましたら幸いです。

(2)勝手口の装飾が面白い

(3)桝田酒造店
ブログ よれば
 当主桝田隆一郎がこだわりぬいて、
 日本海と立山連峰の恵みのもと
 富山を代表する日本酒『満寿泉』を醸しています。

 

 
 富山信用金庫等  [TOP]
 
(1)富山信用金庫
(2)富山信用金庫の看板
(3)裏通り
(4)佐藤釣具店
2012年景観広告とやま賞の 景観広告優秀賞 をもらっている。
佐藤釣具店
■富山市岩瀬新川町
■設置/佐藤釣具店
■デザイン/職藝学院 上野 幸夫 教授 ■政策/金谷板金工房
富山市岩瀬地区にある釣具店。岩瀬地区の町並み修景にあわせ、設置された看板は、伝統的な街並みに調和するよう金属素材を用いて、額縁にも丁寧な加工が施されている。魚を釣るデザインも遊び心にあふれており、楽しい看板になっている。
 

 
 桝田酒造醸造所  [TOP]
 
 
 

 
 御蔵跡  [TOP]
 
(1)御蔵跡
ブログ によると
御蔵跡(富山市岩瀬)概要: 案内板によると
「 東岩瀬は、加賀藩領新川米の積み出し港として栄え、港には藩の米蔵が建並び、蔵米は海路、大阪へ運ばれ金銭に換え藩の費用にあてられた。加賀藩御蔵の敷地は、現在の祗園町から西宮神社附近まで及んでいたという。
 藩用の年貢米(御収納米)を納める米蔵を御蔵といい、藩士の知行米を納めるのを給人蔵と呼び、町人の有力者から選んで蔵宿(町蔵)を申し付け管理させた。
 このほか塩蔵、材木蔵などがあって、能登産の塩や木材が船でこのあたりまで旧神通川をさかのぼり運ばれて納められたといわれる。
 平成4年 富山市 」とあります。
 明治4年(1871)に廃藩置県が行われ加賀藩が廃藩になると、藩の支配下から外れ、近代交通網の整備によって舟運や北前船が衰退するとその役目を終え、随時取り壊されています。現在、敷地の一部が公園として整備されています。

(2)嵯峨寿安弥徳碑
ブログ によると
岩瀬出身の偉人には、嵯峨寿安がいる。
寿安は明治時代になったばかりの頃に、ロシアに留学した。
留学しに首都ペテルスブルグに行くにあたり、当時の金沢藩は金欠のため、船でインド洋を渡るルートではなく、ウラジオストクからシベリアを横断するルートを通った。
これが、日本人初のシベリア横断となった。
寿安の顕彰碑が岩瀬小学校にある。

(3)嵯峨寿安レリーフ
(4)岩瀬小学校敷地?の巨木(マツ)

 

 
 真宗大谷派_養願寺  [TOP]
 
(1)本堂
お寺ガイド によると
<沿革・歴史>
 伝記によれば、西暦1390年頃 西岩瀬の地にありて 真言宗道場を標すといえり。
 1394年 全焼し、1401年 東岩瀬に借地移転再建す。
 1475年 寺院を開山し、養壽が初代 和尚となる。
 第四世和尚 覺玄の世に、禅宗養願寺となる。
 1600年 暴風波に被災し1602年 再建立となる。
 1862年 東岩瀬の火災で被災す。
 1873年 東岩瀬大火災で全焼し、1874年 現在地に移転す。

(2)本堂とカネつき堂

(3)鐘つき堂

 

 
 『ゆるゆり』&『大室家』デザインマンホール  [TOP]
 
富山市の観光公式サイト によると
 令和6年3月1日(金)より、人気コミック『ゆるゆり』&『大室家』(著:なもり先生)のデザインマンホールが全国で初めて富山市に設置されます。富山駅周辺をはじめ、まちなかエリア、五福公園エリア、岩瀬エリアなど路面電車で周遊できる全10ヵ所に設置されますので、ぜひ市内観光と合わせてマンホール巡りをお楽しみください。
 とあり、どうやら、船見由衣というキャラのマンホールのようだ、出来たてのせいか、かなり発色がいい感じだ。
 ゆるゆり(アニメ版)の紹介サイトは コチラ

 

 
 昭和レトロ館・吾楽俊  [TOP]
 
ブログ によると、内部はかなり充実しているようだ。昭和のノスタルジーに浸りたい方は一度はいってみてはどうでしょう。
 

 
 西宮神社  [TOP]
 
西宮神社
facebook には以下のように紹介されている
富山市岩瀬西宮町 西宮神社 にしのみやじんじゃ
御祭神 えびす大神 えびすおおかみ
ご利益 商売繁盛 航海安全 豊漁
この神社の由緒は不明ですが、西宮神社とあることから兵庫県西宮市にある西宮神社より、神様をお迎えしたと考えられます。
鳥居の横には御神木とおもわれる大木がありました。神社の境内には遊具があり、子供たちに囲まれた、親しみやすい神社だなと思いました。
 

 
 旧東岩瀬駅舎  [TOP]
 
WIKI によれば
普通鉄道当時
単式ホーム1面1線を有する地上駅であった[19]。貨物取扱の行われていた時代には、駅舎反対側に側線を有し、貨車の留置に供用されていた[3]。
木造平屋建の駅舎は1924年(大正13年)に竣工したもので、下見板張に大きな窓枠が廻らされている[20]。富山港線各駅の駅舎は富山ライトレール移管時に取り壊されたが[21]、この駅舎と富山ライトレール移管前に用いられていたホームは保存されており、駅舎内部には改札口や白熱灯等が残され、往時の写真が展示されている[16]。2010年(平成22年)1月26日には富山県教育委員会によってとやまの近代歴史遺産百選に指定された[22]。
(3)(4)駅舎内部
 

 
 富山ライトレール東岩瀬駅  [TOP]
 
(1)東岩瀬駅から岩瀬駅方向を撮影
(2)東岩瀬駅から旧駅舎を撮影
 

 
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