2024年_富岡製糸場_前半部
 写真総数:30枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 2024年11月12日に富岡製糸場の中を歩いた時の写真です。(前半部)
<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ---------------------->
 

 
 富岡製糸場の正門  [TOP]
 
 
 

 
 東繭所  [TOP]
 
東繭所に関する HP によると

 富岡製糸場の代表的な建物で2014年には国宝に指定された東置繭所は、木の骨組みに煉瓦を積み重ねる「木骨煉瓦造」で造られています。 煉瓦という西洋の素材と屋根は日本の伝統的な瓦で葺くなど、東洋と西洋の技術がこの繭倉庫には有ります。
 繭倉庫の主な資材は 石、木、煉瓦、瓦で構成されていて、鉄枠の窓や観音開きのドアの蝶番(チョウツガイ)いなどはフランスから運び込まれたものでした。しかし、資材の調達は大規模な建築のため多くの困難が伴いました。
 中心となる材木は主に官林(旧幕府又は藩所有の山林)から切り出しました。杉の木の大きいものは 妙義山、松の木は吾妻から調達し、小さい材木は近くの山林から集めました。
 また礎石の石材は連石山(現・甘楽町小幡)から切り出され「ねこ」で富岡まで運びました。 煉瓦は、フランス人技術者が瓦職人に作り方を教え、福島町(現・甘楽町福島)の 笹森稲荷神社の東側に窯を築き、瓦と共に焼き上げました。
 その中心となったのは埼玉県深谷からやってきた瓦職人と言われています。


 

 
 行啓記念碑  [TOP]
 
(2)記念碑の碑文については コチラ が詳しい。以下に内容を抜粋する。

 創業して半年後(明治6年)に明治天皇の皇太后および皇后が富岡製糸場に行啓されました。この記念碑は、行啓70周年を記念して片倉兼太郎氏(片倉工業3代目)が昭和18年(1943年)に建てられた碑です。 碑には皇后が詠った和歌が刻まれ、いと車とくもめぐりて大御代の冨をたすくる道ひらけつゝ(たくさんの糸車が速く回っている様子は、我が国の繁栄につながるだろう という意味)という富岡製糸場への期待感が表されています。
 また、碑の台座は扇の形をしていますが、これは行啓の際、皇太后・皇后が工女全員に桐の御紋が付いた扇子を配ったことにちなんでいます。 創業間もない時期に皇太后および皇后が揃って富岡を訪れたこと、また和歌の内容からも、いかに我が国が富岡製糸場に力を入れていたかが分かります。


(3)明治6年(1873)6月、明治天皇の皇后と皇太后が富岡製糸場を行啓されました。
 この記念碑は、行啓70周年を記念して片倉経営期に建立されたものです。台石には三波石(結晶片岩)が使われており、石垣は、行啓を契機に工女たちに下賜された扇子をかたどっています。
 碑面には、行啓の際に皇后が詠まれた短歌「いと車 とくもめくりて大御代の 富をたすくる道ひらけつつ」が刻まれており、製糸業の発展が日本の繁栄につながることへの期待感をうかがうことができます。

 

 
 片倉工業株式会社 記念碑  [TOP]
 
 当工場は明治5年に殖産興業の一大政策のもとに政府が威信をかけて創建した器械製糸場である。その目的は新製糸技術の伝習と器械製糸場の設立普及のための模範工場であった。全国から参集した多くの工女たちは新技術を学び、帰郷後は指導者として大活躍する一方、当工場を範とした器械製糸場が各地に設立された。その功績は多大なものである。
 三井家に払下げられた以降、原合名会社の手を経て、昭和14年に片倉工業株式会社の所有となり、片倉工業株式会社の全盛を築いてきた。木骨レンガ造の建造物は創設当初のままである。
 昭和62年3月に操業を中止した後も片倉工業株式会社が保全管理に務めてきたが、平成17年7月国史跡に指定されたことを機に同年9月30日を以て、全建造物を富岡市に寄贈した。また平成18年7月には操業当初の建造物等が重要文化財に指定された。
 この歴史的文化的価値の高い事績を末永く顕彰すると共に、保存活用されんことを祈念して、この碑を建立するものである。
 平成19年3月
片倉工業株式会社
撰文
 富岡市立美術博物館
 館長 今井幹夫

 

 
 富岡製糸場とは  [TOP]
 
近代産業の礎を今に伝える
1872年(明治5)に明治政府による最初の模範工場として富岡製糸場が誕生しました。西洋の技術を取り入れて建設した、当時世界最大規模を誇った製糸場は、百数十年の時空を経てもほぼ変わらない姿を今に伝えています。
 

 
 建造物の特徴と価値  [TOP]
 
 建設資材はガラスや鉄製窓枠など一部を輸入しましたが、主な資材は現地で調達されました。建築方式は木骨レンガ造や小屋組みのトラス構造など西洋の建築技術と、養蚕農家に見られる喚起用の越し屋根や漆喰で積まれたレンガなどの日本建築の技術をあわせもった工法が使われています。我が国では唯一完全な形で残る明治初期の木骨レンガ造建築です。

 木骨レンガ造

 木造の骨組にレンガ壁を積み並べた構造で、西洋から入ってきた建築技術です。柱・梁といった木骨に屋根の重みがほとんどかかり、壁の部分には力は余りかからない特徴があります。そのため、レンガだけで建てられた建造物より壊れにくい造りをしています。

 フランス積み

 レンガの積み方のひとつです。この方法で積まれたレンガ壁は見た目には優美ですが、ほかの積み方より壊れやすいといわれています。

 トラス構造

 屋根を支える骨組のひとつで、西洋から入ってきた建築技術です。三角形を組み合わせた骨組をもつ構造は、梁に直接力がかからないためスパン(柱と柱の間隔)を大きくとることができます。そのため、日本古来の伝統的建築とは異なり、柱のない大空間をつくることが可能です。

 鉄製窓枠

 照明施設が十分でない当時、製糸場には自然採光を最大限に利用するため大きなガラス窓が設置されました。内側に倒して開ける回転式窓で、鉄製の窓枠にパテでガラスを固定しました。現在、壁面株の大きな窓は改装されてしまいましたが、上部の窓は当時の面影を残しています。

 富岡製糸場が果たした役割

 富岡製糸場が官営模範工場として日本各地に器械製糸技術を伝播させる役割を果たした一方、その生糸は当初フランスのリヨンへ、1881(明治14)年にはアメリカニューヨークに一部が、さらに三井に経営が移行したのちはすべてアメリカに輸出されました。こうした日本の生糸は明治末には生産量・輸出量共に世界一となり、絹の大衆化に世界的に貢献したと考えられます。

生糸商標(官営時代)

 官営時代に製品の生糸につけられた商標です。フランス語で書かれており、輸出先がフランスであることが分かります。

 

 
 荒船風穴ジオラマ  [TOP]
 
荒船風穴の HP によれば
「明治38年(1905)から大正3年(1914)頃に造られました。岩の隙間から吹き出す冷気を利用した蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設で、冷蔵技術を活かし、当時年1回だった養蚕を複数回可能にしました。3基の風穴があり、貯蔵能力は国内最大規模で、取引先は全国42道府県をはじめ朝鮮半島にも及びました。 」
 

 
 桑  [TOP]
 
(3)桑(品種:一ノ瀬) Mulberry(variety:Ichinose)
 葉が、カイコ(生糸の原料である繭を作る昆虫)のエサとなり養蚕に用いられるため、養蚕地域では桑の木が畑などによく植えられます。桑は、品種が多数あり樹形や性質が異なります。「一ノ瀬」は、現在、日本で多く栽培されている品種の一つで、枝は長めでやや多く、葉には光沢があり、落葉性の低木です。
 桑の実は、品種によっては食用に適したものもあり、群馬地域では「ドドメ」と呼ばれ、ジャムや果実酒などに加工されます。
養蚕と給桑 Sericulture and Feeding of Mulberry leaves
 若いカイコ(生後2週間位まで)は弱いため、環境の整った専用の飼育施設で共同飼育されます。現在、この時期のカイコは人工飼料で育てられます。その後、カイコは養蚕農家で飼育され、カイコは桑の葉をたくさん食べて、脱皮を繰り返して成長します。
 生後26日位たつと、カイコは糸を吐き始めるので、蔟(まぶし)へ移して繭を作らせます。10日くらいで繭は収穫され、生糸の原料として製糸工場へ出火されます。

 

 
 世界遺産富岡製糸場  [TOP]
 
来場記念 世界遺産富岡製糸場 2024年11月12日 記念撮影場所がこちら
 

 
 ブリュンナエンジン(復元機)  [TOP]
 
(3)ブリュンナエンジンの稼働の動画は コチラ
復元機について
 この復元機は、富岡市の商工会議所工業部会により、工業振興・発展に寄与する目的で、また将来に残せる工業会のシンボルとして、製作されました。外形等の主要な形状及び運転能力についてはオリジナルのものとほぼ同じです。

 蒸気機関の主な仕様
 【寸法】全長3.8[m] 奥行2.4[m] 【重量】2.7[t] 【馬力】17.5[馬力]
【シリンダ径】254[mm] 【ストローク】500[mm] 【回転速度】55[rpm]
 復元機の製作は平成24(2012)年度より始まり、市内38企業の参画のもと「ブリュンナエンジン製作委員会」を立ち上げ、その後、設計図面の製作、部品の製作、組み立て、調整を経て平成28(2016)年度に完成しました。設計図面の製作にあたっては、リバースエンジニアリング技術(3次元測定器)を用いて測定したデーターにより設計図面を製作しました。製作にあたっては、現在入手可能な材料の中から出来るだけオリジナルに近いものを選択肢、現在の金属加工技術(旋盤やマシニング加工等)を用いて加工されました。ボルト類については、今後の維持管理を考え、JIS規格のものが使用されています。

横型単気筒蒸気機関
 高温蒸気のもつ熱エネルギーをピストンの往復運動として器械的仕事に変換する熱機関です。機関はシリンダーが1つ(単気筒)である事から避けがたい回転のむらを吸収するために慣性力の大きいはずみ車(フライホイール)を備えています。

マイヤー式二重弁装置
 蒸気をピストンの両側へ交互に分配する装置に「二重滑り弁」を使うことで、一般の単弁式に比べて省エネルギーな方式になっています。

ピストン・クランク機構
 蒸気の力でピストンを動かして得た往復運動を、クランク機構を用いることで回転運動に変換しています。
【展示】
はずみ車(フライホイール)
【直径】約2.5m 【重量】1.2[t]
 回転軸に大きな慣性力を持つはずみ車(フライホイール)を付けることにより回転力のむらを吸収(回転を安定させる)し、回転をを滑らかにしています。
【展示】
調速機(ガバナ)
 機器の運転状況に応じて原動機への負荷は変動し、それに応じて回転速度が変化(負荷が小さいときは速く、大きいときは遅く)します。この変化に対応して回転速度を一定に保つためには、負荷の変動に合わせてシリンダー内に送る蒸気の量を調節する必要があります。蒸気量を調節する装置として調速機(ガバナ)が備え付けられています。
 フライングボールをクランク軸の回転にリンクさせることでボールが水平方向に回転し、遠心力を受け、その力によりボールが垂直方向にに力を受けます。この垂直方向への動きを利用して蒸気の絞り弁の開き具合を自動操作することで蒸気量を調節(回転が早いときにには絞り、遅いときには開く)し、一定の回転速度を保つ構造としています。

 ブリュナエンジンとは

 富岡製糸場の設立の際に導入された横型単気筒蒸気機関(エンジン)の事です。繰糸器(繰った糸を巻き返す器械)の枠を回転させる動力として蒸気窯(ボイラー)とともに蒸気釡所に置かれていました。
 富岡製糸場の設立指導者であるポール・ブリュナによって導入されたため、ブリュナエンジンと呼ばれています。工業機械用の原動力としては日本で現存最古とされていますが、製造元を示す銘板等が見つかっていないため、未解明な部分も残されています。この蒸気機関により得られた動力は、地下を通り繰糸所まで伝えられていたと考えられています。
 記録によると、明治5年の創業当初から動力源が電気モーターに換わる大正9年までの約50年間使われており、その間にシリンダー及び運転用の蒸気ボイラーが2度交換されています。その後、昭和43年、その当時の経営者である片倉工業株式会社により博物館明治村(愛知県犬山市)へ寄贈され、現在は同施設内で展示されています。

 蒸気釡所(国指定重要文化財、明治5年建築)

 ブリュナエンジンが、動力源として使用されている間に置かれていた建物です。木骨煉瓦造り、平屋建で、建物の使われ方の変遷に伴い改造されたため、建設当初とはだいぶ異なった姿となっています。
 蒸気ボイラー6基と蒸気機関(ブリュナエンジン)1機を納めていた製糸場の心臓部ともいえる建物で、西、中央、東の3棟に分かれており、順に蒸気機関、蒸気ボイラー、石炭置場となっていたと思われます。
 現在は、改造・増築され煮繭場・選繭場・保全室・繭置場に変わり、当初から残る部分は、西棟と中央棟西2/3の軸部のみです。


 

 
 ショベルローダー  [TOP]
 
「ショベルローダー」1984年(昭和59)導入
型式 TCM SG10N3 東洋運搬機株式会社製
 ボイラーの燃料として場内にストックされた木くずの運搬用に導入され、1984年(昭和59)から操業停止まで使われたものです。
 富岡製糸場では1872年(明治5)の操業当初から繰糸器や揚返器の枠を回転させる動力である蒸気エンジンや生糸づくりに必要な大量の湯を沸かすために、石炭を燃料としたボイラー(蒸気釡)が設置されていました。
 その後、動力は蒸気エンジンから電気モーターに変わりましたが、生糸作りをはじめ炊事や浴場など場内生活にも必要なため、1987(昭和62)3月の操業停止までボイラーは使われ続けました。
 当初は石炭を燃料としていましたが、最終的に重油を燃料としたボイラーと木くずを燃料としたボイラー各1基となっています。
 

 
 西置繭所  [TOP]
 
(2)西置繭所 国宝
明治5年(1872)建築 長さ:104.4m 幅:12.3m 高さ:14.8m
 東置繭所と同様、2階を原料繭の貯蔵庫として使用しました。建物の構造・大きさは、ほぼ東置繭所と同じです。
 1階は、操業当初、蒸気汽缶(ボイラー)の燃料用の石炭を置く場所や繭をより分ける場所などとしても使われました。明治26年の民営化後は、一時期、揚帰場としても使われ、東置繭所と比べると製糸工程にかかわりが深い施設です。
 

 
 トラス構造の屋根  [TOP]
 
トラス構造とは、 鹿島建設の説明 によると
「構成される三角形を単位とした構造骨組の一種で、各部材の端部節点がすべてピン接合となっているものをいいます。荷重がかかっても各部材には軸方向に圧縮力か引張力しか発生せず、曲げモーメントを受けにくくなっています。そのため変形しにくい構造でドームなどの大空間や橋の架構に用いられています。」
 

 
 釘  [TOP]
 
(2)釘は、建物を鑑賞するときには、通常なら見落としてしまうほど小さな建築資材ですが、建物を形作るためには欠かすことのできないものです。西置繭所においても、根太、床板、天井、ガラス窓、柱、建具と文字通り様々ン部位に、多種多様な釘が用いられています。
 文化財建造物の保存修理という観点から見た場合には、釘は大切な情報源でもあります。用途や材質や製造工程の違いなどによって、それぞれの釘に特徴があり、釘の製造年代を読み取ることができるためです。どんな釘が使用されているかが、その部材が取り付けられた時代を判断する根拠となる場合もあります。

 しかし、今回の工事で確認できた釘は、同じ種類の釘でも、明らかに改造時期が異なる箇所で使われている事柄が多く見受けられました。西置繭所では、建具、床、屋根などの部位で、古材を再利用したり、他の建物から部材を転用したりしています。このことは、必要に応じて、工場内のストックをうまく利用して部分的な改造を繰り返しながら、操業を続けていたことをうかがわせます。
 釘についても同様に、ないかの工事に使用した釘の残り(不要材や?資材)を場内でストックしておき、次の小規模な工事や維持修理の際に用いたために、使用されている釘の製造時期と、建物の改造時期が合わないということが起きていると考えられます。釘を丹念に調べることは、操業していた頃の富岡製糸場の様子を推察することへもつながります。

 

 
 生糸置場  [TOP]
 
 
 

 
 煙突  [TOP]
 
煙突の HP によれば

 この煙突は1939年(昭和14年)に建てられた高さ37.5m 直径2.5mの鉄筋コンクリート製の4代目の煙突です。 1965(昭和40年)に撤去されるまでは3代目の煉瓦造りの煙突が並んで立っていました。当初の煙突は煉瓦積みの基礎の上にヨーロッパから輸入した鉄の筒を高さ36mまで積み上げ、鉄の鎖を四方に張って支え、フランス製と思われる避雷針が付けられた鉄製煙突でした。
 その高さは現在のものとほぼ同じで、煙突を高くすることで、黒い煙で生糸が汚れないようにしました。又、工女や周辺環境にも配慮していたと考えられます。1884年(明治17年)の暴風雨によって倒れてしまい、現在は基礎部分が井戸枠として残っています。


 

 
 鉄水溜  [TOP]
 
鉄水溜の HP によれば

 製糸の工程で大量の水が必要で貯水施設は必要不可欠でした。当初はレンガ積みで作られましたが、水漏れが激しくその後(1875年明治8年竣工)鉄製で造られました。 日本で現存する鉄製構造物では最古級と言われています。 輸入された鉄板を横須賀造船所の関連施設(横浜製造所)で基本的な造作が行われ、組み立ては富岡製糸場内で行われたと言われています。
 組み立ては造船の技術のリベット接合が用いれれています。 土台の礎石は、南牧村から切り出した椚石(くぬぎいし)が使用されていると言われていますが、肉眼で見えている5段に積み上げられた石は椚石(くぬぎいし)ではありません。
 基部の下に埋もれているとも考えられますが、発掘調査が待たれます。当初は2段積でしたが、水圧を上げるため、現在は5段積となりました。 直径15.2m 深さは最深部で2.4m有り約400t(3.762m3)もの水を溜めることができました。 2006年に国の重要文化財に指定されています。


 

 
 奉賀御即位  [TOP]
 
奉賀御即位について調べた ブログ によれば

 東置繭所から西置繭所に向かう中庭のようなところに、石碑が立っています。何の解説もないので、みな気に留めず通り過ぎていきますが、正面には、大正天皇の「奉賀御即位」とあり、側面には「大正4年(禾の下に千?)11月10日記念 従二位男爵野邨素介」、裏面は「大久保佐一」ほか13人の名と「検査男工女工一同」と刻まれています。
 大正4年といえば、横浜の原合名会社が所有していた頃です。
 社長の原(三溪)富太郎の名はなく、なぜ筆頭が大久保佐一なのだろうと、疑問を持ちました。ググってみると、大久保佐一は当時、所長でした。群馬県の蚕糸業界に多大な功績を残した方にもかかわらず、昭和9年10月22日、社長として兼務していた組合製糸「群馬社」の重役宿直室で自殺をとげています。
 詳しくは、 上毛新聞・ぐんまルネサンスの記事 をお読みください。その後の昭和13年、片倉製糸紡績株式会社に経営が委任されるのです。


 

 
 役職者用住宅(民営化後)  [TOP]
 
(2)敷地の北東エリアには、民営化後に建てられた住宅群が広がります。そのうち、西側の4棟(現在東側の2棟は接続)は戸建てで、役職者用の宿舎として使われました。いずれも明治26(1893)年の民営化後まもなく建てられたものです。
 一番西端の唯一2階建ての社宅は、その時々の製糸場の長がすみました。2階の窓には斜め板張りの両開きの板戸が付くなどし、擬洋風的な意匠が特徴的です。
 

 
 社宅群  [TOP]
 
 敷地の北から北東にかけて三井経営期から片倉経営期(戦前)の間に建設された社宅群が現存します。社宅はいずれも木造瓦葺で、このうち西から4棟は、三井経営期の明治29年(1896)ごろに建てられたものと思われます。それぞれが別棟となっていますが、西から3番目、4番目の社宅は、屋根が一体化しつながっています。これらの4棟は、片倉経営期(後期)には、工場長や総務課長、原料課長及び工務課長とその家族が住む幹部用住宅として使用されました。
 旧工場長社宅は、社宅として最も古く、明治29年以前の建築の可能性があります。唯一の2階建てで、和室でありながら2階の窓に斜め板張りの両開き板戸を採用するなど擬洋風的な特徴が見られます。
 

 
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