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| 初めに
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2024年11月12日に富岡製糸場の中を歩いた時の写真です。(後半部)
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<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ----------------------> |
| 女工館
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明治6年(1873)建築
明治6年に建てられたお雇いフランス人用の宿舎3棟のうちの一棟。伝習工女に器械製糸の技術を教えたフランス人女性講師4名のために建てられました。 建物は後に、役員用宿舎として利用されたほか、娯楽活動の場としても使われました。1階は、大正12年から増築分と併せて従業員用の食堂として使用されるようになり、操業停止まで使われました。 木工煉瓦造、2階建。前年に建てられた繰糸所や2棟の置繭所に比べると、煉瓦積がよく整っています。2階の三方を回るベランダの菱組天井は特徴の一つです。 ※撮影がもれていましたが、HPに女工館の 写真 があります。 |
| 高圧変電所
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(2)昭和23年(1948)建築
送電線から引き込んだ高電圧の電気を、工場内で使用する電圧に変える施設です。 「上毛かるた」に「理想の電化に電源群馬」とうたわれる群馬県は明治中頃から水力発電事業が進みました。高崎の製糸工場などは明治後期に電化さらますが、富岡製糸場の動力電化は、史料によると大正9年に「モートル」(電動機)が設置されて行われました。富岡町に一般的に電気が供給されるのは大正13年で、長野伝統西毛支社(旧西毛電気)から給電されました。 |
| 繰糸場(そうしじょう)
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(1)入口
(2)繰糸場(そうしじょう):繭から糸を取り出す「繰糸」を行うために明治5年建設された。屋根には蒸気抜きの越屋根がついていて、窓は採光のため、大きくとり、数も多い。 |
| 上州座繰り器&操業当時の様子
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(1)上州繰り器:
江戸時代に上州(現在の群馬県)で発明された上州座繰り器です。 近代的な器械製糸が日本に導入される前は、このような手作業での糸取りを家庭単位で行うことが一般的でした。 (2)操業当時の製糸場内部の様子: [「富岡製糸場作業場内部」 東京国立博物館 蔵] |
| 繰糸場(そうしじょう)
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| 繰糸場(そうしじょう)
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(3)多条繰糸機:大正時代に日本で発明された繰糸器械です。
この器械でつくられた生糸は海外から高い評価を得ました。 富岡製糸場でも早い段階から導入・研究されていました。 御法川式多条繰糸機[岡谷蚕糸博物館 蔵] |
| 糸整理室
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(2)この部屋では、生糸生産の仕上げ作業を行っていました。糸枠から取り外した生糸を整え、梱包します。出荷される生糸には、商標や専用の段ボール箱が用いられ、富岡製糸場が製造されたことが示されていました。
現在の糸整理室には、生糸を整えるための自動括造機や、梱包した箱を運ぶローラーが保存されています。 |
| 下水とう・外とう(煉瓦積排水溝) 重要文化財
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(2)明治5年(1872)建造
繰糸所から出る汚水と各建物の雨水を場外へ排水するために設けられた暗渠の排水溝です。 繰糸所の北側に並行して西から東に配されている「下水とう」とその東端から南の鏑川まで配される「外とう」からなります。 下水とうは煉瓦造、外とうは石造及び煉瓦造で全長321mです。上部は、くさび型の煉瓦がアーチ状に組まれ、側面と底面には防水層のモルタル塗があり、フランスから輸入したセメントが用いられています。 操業停止まで使用され、現在も建設当時の姿のまま、雨水の排水のために用いられています。 |
| 鏑川
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鏑川の WIKI によれば
「群馬県下仁田町と長野県佐久市との境の内山峠に源を発し、国道254号に並行して東に流れる[1]。下仁田市街地付近で南牧川を合わせ、富岡盆地を経て、高崎市阿久津町付近で烏川に合流する。下仁田町内は三段の河岸段丘が発達し、河岸段丘面や山麓斜面の段々畑を利用したコンニャクの栽培が盛んである[1]。上信電鉄線は、ほぼこの河川に沿って敷設されている。鏑川の上流域(南牧川上流の馬坂川および熊倉川)に長野県佐久市を含む[1]」 |
| 西上州の山々
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(3)鏑川と山の懐かしい風景:荒船・小沢岳・稲含・赤久縄(あかくな)、静かでふところ深い西上州の山々。そして眼下を流れる鏑川。古く戦国時代にはこの山並みの向こう側、甲斐の国から武田信玄が攻めてきました。
製糸場創業当時、全国から500名を超える工女さんたちが、電車も自動車もない時代、悠々この地にやって来ました。この風景を長め、遠い故郷を思い出したはず。 富岡まちてくサイン [B]ながめスポット Feb 2013 富岡げんき塾 |
| 寄宿舎(妙義寮・浅間寮)
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(2)昭和15年(1940)建築 長さ:55.0m 幅:7.3m
片倉経営期(戦前)に建てられた女性従業員用の寄宿舎で、南棟は「妙義領」、「浅間寮」と呼ばれていました。使用されている建築材から当時の物資調達の難しさがうかがえます。 部屋の北側に廊下を配し、15畳の部屋が16室、計32室あります。部屋の名札掛けの数から最大12人まで使用可能な造りとなっています。 建物の東側には洗濯場や物干場が隣接し、室つ内にはアイドルのポスターや観光土産の定番だったペナントがそのまま残されているなど、操業当時の寄宿舎生活の様子を物語っています。 |
| 寄宿舎(榛名寮)
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(3)首長館(ブリュナ館)の西側に隣接して建てられた女性従業員のための寄宿舎2棟のうちの1棟です。三井経営期の明治29年(1896)に建築された鏑寮(現存せず)の北側に原経営期に建設されました。
痕跡から2階建ての民家(養蚕農家)を転用し、増築・改造したものと考えられます。各部屋が20畳以上の大部屋となっているのが特徴です。壁や押し入れには映画俳優のブロマイドが貼り残されています。 また、寄宿者が休日に調理を楽しんだ1階西端の割烹室には調理器具や食器類がそのまま残されており、建物の随所で女性従業員の暮らしが感じられます。 |
| 首長館(ブリュナ館) 重要文化財
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(2)明治6年(1873)建築
明治6年に建てられたお雇いフランス人用の宿舎3棟のうちの1棟、設立指導者として雇われたフランス人、ポールブリュナのためにたてられました。ブリュナは任期満了の明治8年12月まで、ここで家族とともに暮らしました。 建物は後に、宿舎としてのほか、女性従業員の学びの場として、また、娯楽行事や式典などを行う会場として使われました。現在は、「片倉富岡学園」の校舎として使われていた状態で残り、部屋には「学園講堂」や「洋裁室」、「第一教室」などの看板がついています。 木骨煉瓦造、平屋建て、周囲にはベランダが回ります。用途が変わったことから内部は改造されていますが、床下には建設当初からの煉瓦造の地下室が残ります。 |
| 検査人館
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(2)明治6年に建てられたお雇いフランス人用の宿舎3棟のうちの1棟。生糸検査人などのフランス人男性技術者のために建てられました。
建物は後に、役員用宿舎として使われていましたが、原合名会社の経営期から事務所として使われるようになりました。 木骨煉瓦造、2階建。玄関や通用口などが増築されています。2階は「貴賓室」として遺る部屋以外は和室に改造されているものの、フランス人用宿舎3棟のうちでは建築当初の部屋割りなどが最もよく残り、断路のマントルピースや螺旋状の内部階段などが残ります。 |