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| 初めに
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2024年4月5日富山県の砺波駅近くのチューリップ公園付近の写真です。
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<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ----------------------> |
| 砺波駅
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砺波駅は WIKI によると
砺波駅(となみえき)は、富山県砺波市表町にある西日本旅客鉄道(JR西日本)城端線の駅である。 1897年(明治30年)5月4日:中越鉄道の黒田仮停車場 - 福野駅間開業と同時に出町駅(でまちえき)として設置され、旅客及び貨物の取扱を開始する[1][2]。 1954年(昭和29年)11月10日:出町駅から砺波駅に駅名を改称する[10]。 1987年(昭和62年) 4月1日:国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる[2]。 1998年(平成10年) 2月5日:駅舎を改築し、その供用を開始する[19]。 |
| 駅周辺
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(1)まると牛乳 まると牛乳の 資料館 によると、
1879年(明治12年) 当地で鍋澤牛乳として創業、日本ではじめて搾乳と牛乳販売を始めたのは横浜で前田留吉が1866年(慶応2年) 。その13年後に鍋澤牛乳が創業しており、日本での乳業としては永い歴史をもちます。 1970年(昭和45年) 11月 統一ブランド「まると牛乳」として生産開始。商品名「まると」は協業開始当時大手資本の牛乳メーカーが県内参入しはじめた頃で、砺波地区の業者同士が、手を取り合って協力し合いまるく収まって上手くいくようにとの思いが込められている。2015年(平成27年)アニメ『ゆるゆり なちゅやちゅみ』に、まると牛乳が登場 (2)二階にある屋根が一階の屋根までのびる屋根重視の住宅、二階の三角の部屋は物置とかに使用しているのだろうか?なかなか面白い屋根の構造だ。この近くには世界遺産の白川郷の合掌造りを模したものかもしれない。 (3)砺波といえばチューリップ、それを模した街灯 |
| となみ町公園の小川
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| 旧中越銀行本店
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(3)旧中越銀行本館
砺波市指定文化財 旧中越銀行本店 附・旧中越銀行本店設計図 昭和57年12月8日、平成3年6月13日 指定 中越銀行は砺波地方の大地主や豪商によって明治27年12月に設立された。この建物はその本館として、東砺波郡出町大字杉木新村272番地(現砺波市本町5の17)に明治40年3月に工を起こし、同42年7月に竣工した。総工費は4万5千余円。 概括設計は東京建築設計技師長岡平三、実施設計および工事監督は地元の藤井助之丞であった。 洋風を取り入れた木造土蔵造りで、一部煉瓦を使用する。屋根は破風(はふ)の大きい入母屋(いりもや)で妻入り、三方に下屋をおろし、後方にT字形に入母屋根を組合わせている。前口16.36メートル(9間)、奥行18.79メートル(10間)に正面玄関を設け、建築面積308.77平方メートル、軒高9.1メートル、梁高14.3メートル。 内部は吹抜けの営業室を中心に、三方をロビーで囲み、後方は1階に金庫室、両側応接室、二階は会議室となっている。化粧材はすべて欅を用い、全体をコリント様式の彫刻でまとめている。建築当初は屋根は本瓦葺、外壁は黒漆喰塗りであったが、後に銅板本瓦棒葺(かわらぼうぶき)、タイル壁に改装された。 中越銀行は昭和18年7月、1県1行の国策により十二銀行、高岡銀行、富山銀行と合併して北陸銀行となり、この建物は同行の出町支店(後に砺波支店)となった。 昭和53年都市改造事業のため取りこわされることになったが、北陸銀行の好意により建物および移築費の寄付を受け、昭和54年8月復元移築を完了したものである。 砺波市教育委員会 |
| チューリップ公園周辺案内図
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砺波チューリップ公園の WIKI はコチラ
砺波チューリップ公園は、富山県農事試験場出町園芸分場(現在の富山県農林水産総合技術センター園芸研究所果樹研究センター)[2]が由来とされる[6]。第二次世界大戦後、1951年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導により園芸分場の廃止案が上がった[6]。同年、生産農家や研究者が分場の一般開放を考案し[7]、GHQ関係者を招待。チューリップが咲く風景を見て廃止案を撤回した[6]。これが現在の「となみチューリップフェア」の前身にもなっている。 1964年、砺波園芸分場(砺波市市制移行後に名称変更)の果樹部門が魚津市へ移転後にチューリップフェアの会場も現在のチューリップ公園へ会場を移し開園した[3]。1976年に公園整備に着手し、1986年の第35回となみチューリップフェア開催時に現在の公園の整備が完了した[7]。 |
| チューリップタワー
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(1)二代目のチューリップタワー
2021年(令和3年)3月下旬完成し[25][26]、同年4月22日に完成式が行われた新(二代)タワーは[28]、高さは約26mと、初代タワーより約4m高くなり[26]、展望台の位置も約1m高い[33]。新タワーの各頂点には高さ約2m、幅約1.6mの3品種のチューリップのオブジェ(赤「とやまレッド」、白「白雲」、黄「黄小町」)が取り付けられている[25][26]。また、展望台に続く螺旋階段の途中高さ4mの位置には、延長が138mあるスカイウオーク(展望園路)に繋がっている[29][34]。 2021年(令和3年)の70回記念チューリップフェア終了後の6月上旬に、初代タワーは取り壊されるため、2本のタワーが並ぶ最初で最後のフェアとなり[35][28]、5月下旬から29日まで、2本のタワーがライトアップされ[36]、29日には旧タワーのクロージングイベントが開催された[37]。 |
| 茎ベンチ
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(2)茎ベンチ
1972年(昭和47年)に完成した「チューリップタワー」は永らくシンボルとして公園に欠かせない存在でしたが、施設の老朽化により新しいタワーが建設され、その役目を終えた旧タワーは令和3年6月に解体されました。 |
| チューリップステージ
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(1)富山オリジナル品種のチューリップ 「ザ・グレゴールミズノ」 をイメージした半球形のステージ。"ザ・グレゴールミズノ"は砺波のチューリップの父 水野豊造(ぶんぞう)さんが育成した "黄金閣" というチューリップが突然変位してできた品種。
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| ひょうたん池
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(1)この時季は花がさいていなかったのですが、チューリップ等の花が咲いているひょうたん池周辺の写真は コチラ がきれいでした。
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| 新又口用水路
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新又口用水路にかかるふれあい橋から南側(上流方向)を望む。新又口用水路については 「大地を潤す4水路」 によると
(前略)これらの水路は、幾多の曲折を経て、昭和14年に完成した「庄川用水合口堰堤」(平成16年国の登録有形文化財に登録)から取水し、千保柳瀬口用水、舟戸口用水、新又口用水及び若林口用水の4系統で区域内を北上し、それらの総延長は、約90キロメートルに及んでいます。こうした用水網は、かんがいに利用されるとともに、防火、消流雪、生活用水として、砺波平野の散居景観を形づくるうえでも大きな役割を果たしています。 ちなみに、砺波市のチューリップ公園内の五連水車やカモがくつろぐ池には、新又口用水の水が取り入れられています。 |
| チューリップ公園色彩館
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(1)建物外観
(2)水をすくうヒシャク専用のケース? (3)中ではとなみチューリップフェアに向けて、準備中、インストラクターと思しき女性が講習中であった。後で調べてみると、プリンセス・チューリップ、プリンス・チューリップのようだ。応募資格は満18歳以上の富山県在住又は出身の男女とある。今年(2024年)のプリンセス・チューリップに選ばれた4人は コチラ 、プリンス・チューリップは調査してみたが、実態がよくわからない。 |
| オランダ製ヴィップ型風車
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(2)オランダ製 ヴィップ型風車 「ヴリンスキャップ」
この風車は、砺波市とオランダ王国のリッセ市が姉妹都市となった1992年(平成4年)に製作されたもので、日蘭交流400周年とチューリップフェア50年を記念してオランダ王国より移設しました。 世界的にチューリップで有名なリッセ市の「キューケンホフ公園」に設置されていたこともあるこの風車には、日蘭友好のシンボルとして、「DE VRIENDSCHAP」(友情)、という名前がつけられています。 2001年3月 ■風車諸元 風車本体高:4.86m、総重量:2600kg 羽根:直径7.2m・最上点高:8.16m 風車が回転を始める最小風速:2.45m/s |
| となみ散居村
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(2) 散居村について より
1.散居村の成立 砺波平野を流れる庄川は、かつては主流と幾筋もの支流に分かれており、その流れの変遷によって長い間をかけて扇状地を造ってきました。この扇状地では地表の土層が薄く、その下は砂や小石が堆積していますが、ところどころに土がより堆積した表土の厚いところが形成されていました。 その周りより少し高いところ(微高地)に家を建て、洪水の害が及びにくい周囲の土地を開墾していったのです。 ・扇状地の水田は「ザル田」と言われるほど、水持ちが悪く米作りに大切な水の管理が大変でしたが、庄川からの表流水が豊富であったため、水を引くことが比較的容易でした。 ・近世に入り加賀藩の治水事業によって庄川本流の流れが固定され、支流の川跡を基幹用水として利用し、その用水より網目のような小さな用水路網が造られていきました。この用水路網の整備によって、さらに廃川地の開拓が進み、散居村が広がって近世末の砺波郡は27万石の穀倉地帯となっていたのです。 2.屋敷林(カイニョ)の役割 屋敷林は開拓の当初、原生林の一部を残したのが始まりと言われ、冬の季節風や春のフェーン現象による強風などから家を守る防風林などとして、重要な役割を担っています。 屋敷林には、スギ、ケヤキ、アテ、タケその他多様な樹種が植えられました。 ・スギは水を好む樹木で、降水量の多い砺波平野では良く生育します。 ・落ち葉や枝木は燃料となり、成長した樹木は建築材料としてかつて利用されました。 ・実のなる木や花の咲く木も植えられ、下草には食用や薬草になる草本類も育てられ、屋敷林は農家の自給自足の暮しを支えました。 3.用水の生活利用 ・用水は水田に水を引くとともに、かつては扇状地平野では地下水位が深く井戸を掘ることが難しかったので、多くの地域では家の敷地内に小さな水路を引いて、炊事洗濯や飲み水として利用されました。 ・川には自浄作用があり、加えて人々は水を大切に扱ったので、下流まできれいな水が流れていました。 4.散居村の変化 古くは日本各地にも散居村が多く成立しましたが、農作業の都合により、次第に農家が集まって集村化する傾向が一般的でした。 散居村が成立した近世初頭から現在まで、砺波平野でも散居村の形態がくずれかねない状況がありました。 ・加賀藩の「田地割」は、年貢を課す農地の状態に公平を期すため「くじ引き」で耕作地を定める制度でした。しかし、人々は農地を交換し合って自分の家の周りに土地を集めるように努め、加賀藩もそれを認めていました。 ・第2次世界大戦後の「農地改革」によって多くの農家が自作農となり、家の周りの農地を私有するようになり、一層米作りに励みました。 ・昭和30年代後半から「ほ場整備事業」が始まり、水田は大型化・直線化し、新しい農道や用水路の整備が行われましたが、大型化した農地となっても交換分合が行われて家の周りに農地は保有され続けました。 ・現在散居村の形は残っていますが、工場・住宅団地の混在化が進んで形態が崩れる地域が増えたり、住民の生活様式が大きく変わり、兼業化・組合化など農業経営の方法も変わる中、農業と散居村との関連性が次第に薄くなっており、貴重な散居村や屋敷林が減少しかねない状況が危惧されています。 5.散居村の保全と地域づくり 昔の砺波地方では「タカ(土地)を売ってもカイニョ(屋敷林)は売るな」という言葉がありました。現代の暮しの中では屋敷林の大切さが見失われ、強風による倒木の恐れ、落ち葉の処理や枝打ちに手間や費用が掛かるため、家の増改築などをきっかけに伐採をする家が増えています。 散居村の景観にとって、屋敷林の減少は大きなマイナスとなっています。散居村は砺波平野の長い歴史と風土の中で育まれた貴重な文化資産です。景観条例の制定や枝打ち支援事業の実施など、行政・地域・住民全体で話し合い、保全していく取り組みが進められています。 |
| 五連揚水水車
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| 五連揚水水車
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| 付近の山々
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おそらくあの向こうに合掌造りで有名な白川郷があるはず
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| 旧中嶋家住宅
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(2)旧中嶋家住宅
砺波市役所の 説明 によると 旧中嶋家住宅(きゅうなかしまけじゅうたく) 昭和51年12月27日・市指定 砺波市花園町(チューリップ公園内) 中嶋家は代々江波村の肝煎(きもいり)(※)を勤めていた家柄で、もと砺波市高波(江波・よなみ)の中嶋粂雄氏住宅で、明治初期の頃の持高約80石、家号はゴンジロサあるいは肝煎を勤めたためキメルサとも言いました。 建物の間口は10間(18.2m)、奥行き3間半(6.3m)の主屋の後に、3間半に4間(7.3m)のツノ屋を逆T字型にとりつけてあり、建坪約53坪(176u)の寄棟(よせむね)茅葺きです。ワクノウチ造りのオイ(広間)を中心に南側に座敷、北側にネワ(土間)、後に茶の間、台所、ヘヤ(寝室)等を配してあり、平面の様式は砺波地方一般にみられるヒロマ型です。18世紀中ごろの建築と推定され、改造部分のほとんどないことと相まり、この地方の農家の古い様式を示す典型的な建物といえます。 昭和51年12月に現在地に移築され、工事費は文化財保護に関心の深い株式会社神田商店社長神田七次郎氏のご好意によりました。公園の整備にあたり、周囲に杉や竹のカイニョ(屋敷林)を植え、灰納屋や杉の生け垣をめぐらして散居農家の屋敷景観を復元しています。 ○ 文献『旧中島家住宅移築修理工事報告書』 砺波市教育委員会刊 昭和52 (※)肝煎とは村長の意味 |