2025年_原爆中心地
 写真総数:64枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 2025年7月24日に長崎の原爆中心地と原爆資料館を歩いた時に撮影した写真です。
<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ---------------------->
 

 
 平和公園停車場  [TOP]
 
 
 

 
 平和公園総合案内板  [TOP]
 
 平和公園は、原爆の実相を訴えるとともに、世界平和と文化交流のための記念使節として整備を行い、次代を担う子どもたちの貴重な平和学習の拠点として、また祈りと願いにあふれたやすらぎの場として多くの人々に利用されています。

(1)平和祈念像
 彫刻家・北村西望氏の作品で、右手は原爆の脅威を示し、左手は平和を象徴しており、閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っています。

(2)平和の泉
 水を求めながら亡くなった被爆者の冥福を祈る場所で、刻々と変化する水形は、平和のはとの羽ばたきを形取り、つるの港といわれる長崎港のつるを象徴しています。

(3)原発落下中心地
 1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分、広島につぐ人類史上2番目の原爆がこの中心地の上空約500mでさく裂し、一瞬のうちに多くの尊い命を奪いました。

(4)長崎原爆資料館
 原爆投下直後の被爆の状況写真や品々が展示されており、被爆体験講話などを行う平和学習室やビデオルームなどがあります。

 

 
 聖徳寺灯籠  [TOP]
 
 聖徳寺灯籠

 爆心地から南南東へ約1,500mの距離にある天王山法輪院聖徳寺は1626年(寛永3年)に創建され、この一対の灯籠は信仰深い檀信徒から献納された。
 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により、総けやき造りの壮大な本堂は崩壊し、境内の石塔や墓石も爆風によりほとんどが倒れたが、この一対の灯籠は倒れずに残った。
 その後、この灯籠は原爆の惨状を伝えるものとして聖徳寺より寄贈を受け、1949年(昭和24年)2月にこの場所へ移設された。
 長崎市は原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。

2004年(平成16年)3月
長崎市
原爆資料館

 

 
 長崎市原爆被災市街地復元図  [TOP]
 
 
 

 
 長崎市原子爆弾被害区域図  [TOP]
 
  原爆搭載機長崎へ

 長崎は、入江に面した美しい港を中心に繁栄し、三方(東・西・北)を山に囲まれた複雑な地形とたたずまいの中に、ポルトガル船入港から原子爆弾投下に至る370有余年の歴史を刻み込んだ、九州の最西端に位置する港湾都市であった。
 太平洋戦争の末期、昭和20年8月9日早朝、西太平洋マリアナ諸島のテニアン基地を飛び立った原子爆弾搭載機B29「ボックスカー」号は、第1攻撃目標の北九州の工業地帯小倉市上空に到達したが、小倉市上空は天候不良のため視界がきかず、第2目標であった長崎へと方向を転じた。
 長崎市上空へ侵入した「ボックスカー」号は、雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所の巨大な工場群を発見、高度3万フィート(約9,600メートル)から投下した原子爆弾は、午前11時2分、長崎市の北部、松山町の上空約500メートルで天を裂くような熾烈な閃光を伴って爆発した。

原子爆弾による被害状況

 死 者・・・・・・73,884人
 負傷者・・・・・・74,909人
         (当時の推定人口24万人)
 罹災人員・・・・・120,820人(半径4キロメートル以内の全焼、全壊の世帯員数)
 罹災戸数・・・・・18,409戸 (半径4キロメートル以内の全戸数、市内総戸数の約36%)
 全焼・・・・・・・11,574戸(半径4キロメートル以内 市内の約1/3にあたる)
 全壊・・・・・・・1,326戸(半径1キロメートル以内を全壊とみなしたもの)
 半壊・・・・・・・5,509戸(半径4キロメートル以内を半壊とみなしたもの)
 焼失土地面積・・・6.7km2

 

 
 原爆落下中心地  [TOP]
 
 原爆落下中心地

 ここは原子爆弾が投下された中心地です。
 この説明板の右側にある黒御影の石柱はその中心地を示しています。
 1945年8月9日午前11時2分、爆撃機B29により投下された原子爆弾は、この地上500m上空でさく裂、爆風と熱線と放射線によって市街地は廃墟と化しました。
 そのため長崎市の北部一帯は全焼し、約15万人の死傷者を出しました。「75年草木の生じることなし」といわれたこの地も、今や平和公園として訪れる人々に世界の恒久平和を訴える発信地となっています。(長崎原爆資料館を展示しています。)
 この写真は1945年10月に撮影されたもので、原爆投下後、最初にこの地に立てられた原爆落下中心地を示す標柱です。
 その後、何度から建て替えられ、現在は黒御影の石柱になっています。
 

 
 爆心地ビデオ  [TOP]
 
当時のままの蝉の声が響き渡る
 

 
 原爆殉難者奉安  [TOP]
 
 昭和二十年八月九日午前十一時二分、一発の原子爆弾が、この地の上空五〇〇メートルでさく裂し、一瞬、七三,八〇〇人の尊い生命を奪い、七六,七〇〇人の負傷者を出した。同時に、家屋の焼失一一,五〇〇戸、全壊又は大破したもの六,八〇〇戸、この地を中心として、二・五キロメートルに及ぶ地域が壊滅した。その惨状は筆舌に尽し難い。ここに原子爆弾落下の中心地を示すためこの碑を建てる。

 昭和三十一年三月
長崎市長 田川 務
 

 
 浦上天主堂遺壁(爆心地から北東約500m)  [TOP]
 
 浦上天主堂遺壁(爆心地から北東約500m)

 爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895(明治28)年から建築に着手し、信徒たちの献金と労働奉仕により、1914(大正3)年に献堂式を拳げるにいたりました。1925(大正14)年に正面の双塔が完成し、大小の鐘がつるされました。
 東洋一の壮大さを誇った天主堂でしたが、1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく袈により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなりました。
 この側壁は聖堂の南側の一部で、1958(昭和33)年に新しい天主堂建設のためこの地に移設されたものです。壁上の石像は、フランシスコ・ザビエルと使徒です。しかし、風雨にさらされて劣化が進行したことから、安全性を考慮して現在の形状のまま内部及び表面の補強を行ないました。
 長崎市は、原爆で亡くなられた方々を追悼するとともに、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置します。
      2001(平成13)年3月
      長崎市
     (原爆資料館)

 

 
 狛犬  [TOP]
 
遺壁の直下にあるこの狛犬は元々浦上天主堂遺壁の下にあったのだろうか?宗教的にどうなのか?
狛犬ではなく吐水口であるという説明が以下のブログにあった

 この吐水口は屋根にあったガーゴイルを再配置したのではなく、当初から出入口に置かれていたらしい。この場合は教会建築でも狛犬という呼称でいいのかな。造形は明らかに狛犬だよね。
 

 
 母子像  [TOP]
 
 被爆50周年記念事業碑

 今日の平和日本の繁栄や平和都市長崎の発展を考えるとき、1945年8月9日11時2分の原子爆弾の直爆により亡くなられた方々のうち、約7割の方が、子供や女性、及び老人の方であったことを永久に忘れてはなりません。
 この碑は、本市出身の彫刻家、富永直樹氏に依頼して制作したもので、原爆の悲惨さと、被爆により亡くなられた多くの方々のご冥福を祈り、ひいてはこの尊い犠牲が今日の平和の礎となったことを念頭におき、偉大なる母の慈悲心と、永久に平和であれと念じ、あたたかく深く母の胸に眠る傷心の子供の姿を配することによって、21世紀に羽ばたく日本の未来を表現しています。
 子供の姿はあの日の日本の姿を、母の姿は日本を支える世界の国々の姿を表し、この支えを受けながら今日の平和な日本の礎が築かれたことを、私たちは忘れてはならないという制作者の思いが込められています。
 原爆落下中心地地区は、被爆50周年の大きな節目を機に、「祈りのゾーン」として、世界へ向けて被爆の悲惨さを伝え、被爆者の冥福を祈るとともに、核兵器廃絶と世界恒久平和を祈念する場とするため、平和公園整備事業として整備を行いました。
 この碑は、原爆落下中心地地区を「祈りのゾーン」として、より充実・強化し、世界平和の発信地とするため、「被爆50周年記念事業碑」として、ここに建立したものです。

平成9年7月 長崎市長

 

 
 嘉代子桜(かよこざくら)  [TOP]
 
 嘉代子桜(かよこざくら)

 1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市松山町の上空約500mで原子爆弾がさく裂しました。
 城山国民学校(現在の長崎市立城山小学校)は爆心地から西方500mの場所にあり、最も爆心地に近い国民学校でした。
 長崎県立高等女学校(当時15歳)だった林嘉代子さんは、学徒報国隊員として城山国民学校で働いているときに被爆して亡くなりました。
 嘉代子さんの母・津恵(つえ)さんは、1949(昭和24)年、若くして命を落とした娘や他の女学生をしのんで、城山小学校に桜(ソメイヨシノ)を贈りました。この桜は「嘉代子桜」として、児童をはじめ、多くの人に親しまれ、今なお大切に育てられています。
 「嘉代子桜」とともに、平和を希求する心が多くのまちに広がることを願っています。

 日本非核宣言自治体協議会は、被爆の実相と生命の尊さを伝える
 ため、城山小学校原爆殉難者慰霊会の協力のもと、嘉代子桜の
 苗木を自治体に配布しています。

 

 
 被曝当時の地層  [TOP]
 
 
 

 
 被曝当時の地層パネル  [TOP]
 
(1)昭和20年8月9日被爆直前の爆心地付近の復元図
(2)山里町の高台(現在の原爆資料館付近)より爆心地を中心として、約180度のパノラマ展望
(3)護岸工事現場より出土した状況
 

 
 被曝当時の地層  [TOP]
 
 被爆当時の地層

 昭和20年8月9日午前11時2分、米軍機B29(ボックス・カー)から投下されたプルトニウム原子爆弾(ファットマン)がこの地の上空約500mで炸裂、約15万人の死傷者を出しました。
 原爆落下中心地にあたるこの地層には、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、熱によって焼けた土や溶けたガラスなどが現在でも大量に埋没しており、被爆当時の悲惨な実相を示す被爆資料として、現地に保存・展示するものであります。

関連サイトによると

 今の原爆落下中心地一帯は、2メートルかさ上げしています。そこで、その土の下に埋もれているものが見られる地層の展示がこちら。ガラス窓の向こうには茶碗やガラス瓶、柄の折れたペンチなど、日常の生活用品が眠っています。瓦の表面がぶつぶつと泡立っているのは、被爆の瞬間に2000度以上の高温に照射された証。すぐ目の間にいまも流れる「下の川」の水面には、当時たくさんの被爆者が水を求めて折り重なるように亡くなっていたそうです。


1996年の護岸工事の際の調査報告書「 長崎市原爆落下中心地碑南東に現れた1945原爆堆積物 長崎大学教育学部 長岡信治」がある。以下に内容の一部抜粋を示す。

 4−2 熱線の影響
 5層には、熱線の影響とみられる高温酸化を受け溶結した表土、発泡した瓦、炭化木片などが認められた(写真4、5)。高温酸化は通常500℃以上で起きると言われている(地学団研究会、1966)。露頭では、破壊家屋の直下のみならず、家屋の分布しない所にも厚い高温酸化の砂層が広く分布することから、高温は家屋の火災などの局部的に生じたものではなく、かなり広範に及んだと考えられる。また、瓦が発泡した原因は、受けた熱線の温度が1,800℃以上あったためと推定されている(The United States Strategic BombingSurvey,1946)。


 

 
 下の川  [TOP]
 
 爆心地直下の惨状

 1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、この松山町上空で原子爆弾はさく裂した。町の東部を流れるこの下の川は、おびただしい死体で埋まっていた。水を求めて川辺にたどりつき、そこで力尽きて息絶えた者、また、川まではい寄る途中で倒れ、焼死した人々の遺体が数多く並んでいた。その惨状を目撃した被爆者は次のように書き残している。
 「下の川の、なかばくずれた松山橋を渡る時−ああ、その下には川の水も流れることができないほど人間の死体が埋まっているではないか。それはあたかも聖書に出ている世の終わりを思わせる、この世の生き地獄図そのままだ。空は白雲一つない晴れ渡った青空というのに、地上はなんという悲惨な光景だ。」(「長崎の証言」1970 より抜粋)
 現在の護岸には、被爆当時の石が用いられている。これは、1984年(昭和59年)〜1985年(昭和60年)にかけての河川改修に伴い、いまも原爆の熱線の跡を残した被災資料として、現在地に留め残したものである。

1997年(平成9年)8月
長崎市
(原爆資料館)

 

 
 下の川  [TOP]
 
 下の川(爆心地付近)の惨状

 この下の川が流れる松山町(向かい側)は、1945年(昭和20)8月9日、午前11時2分、人類史上2番目の原子爆弾が炸裂した中心地である。
 当時この町には、約130世帯1,860人余の一般市民が生活していた。松山町の上空約500メートルで爆発した一個の原子爆弾は、その直後巨大な火の球となり、それより生じた数百万度の熱線と放射線と強大な爆圧は、あらゆるものを一瞬に破壊し焼き尽くし汚染した。
 町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死した。
 壊滅した松山町は想像に絶する灼熱地獄と化し、惨禍の跡は黒焦げの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり、まさに地獄の終焉を思わせるものであった。
 また、下の川上流の家屋解体作業に派遣されていた県立長崎工業学校の先生及び生徒も、ほとんど爆死した。
 この地で被爆死された方々のご冥福をお祈りし、二度と再びこの惨禍が地球上に繰り返されないことを願ってこの地に碑を設置するものである。

     昭和61年8月
     長崎市
     (長崎国際文化会館)

 

 
 平和を祈る子(像)  [TOP]
 
長崎市の説明によれば

 長崎平和の折鶴会
 輝いていますように
 明るく太陽が
 いつも
 世界の子どものうえに
 なりひびかないように
 二度と
 大砲の音が
 くりかえさないように
 二度と
 長崎の子どもの悲しみを
 すがって泣いた
 母さんに
 原子雲の下で

 設置年月日 昭和42年8月9日
 設置者 長崎平和の折り鶴会
 会長 浦川美佐子
 設置目的 原爆犠牲者慰霊、永遠の平和祈念
 作者 中田秀和
 寸法 台座:高さ4メートル、立像:高さ2.5メートル
 材質 大理石


 

 
 追悼 長崎原爆朝鮮人犠牲者 1945.8.9  [TOP]
 
 1910(明治43)年8月22日、日本政府は「日韓併合条約」を公布し、朝鮮を完全に日本の植民地支配下に置いたため、自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失った朝鮮人たちは日本に流入した。その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945(昭和20)年8月15日の日本敗戦当時は、実に2,365,263人、長崎県全体に在住していた朝鮮人は約7万人という多数に上がった(内務省警保局発表)。そして長崎市周辺には約3万数1000人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制労働させられ、1945(昭和20)年8月9日のアメリカ軍による原爆攻撃で約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。
 私たち、名もなき日本人がささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた1万余の朝鮮人のために、この追悼碑を建設した。かつて日本が朝鮮を武力で威かくし、植民化し、その民族を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた戦争責任を、彼らにおわびすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じてやまない。

  1979年8月9日
  長崎在日朝鮮人の人権を守る会

 

 
 不戦平和之塔  [TOP]
 
 原爆殉難者慰霊塔の建立にあたって

 昭和二十年八月九日午前十一時二分長崎は摂氏三千度を超える熱線、秒速五百米の爆風、炎うずまく地獄の中に、人も家も焼きつくされました。
 あの日、多くの建設労働者職人は、徴用で狩り出され、街の強制疎開の建物撤去作業や魚雷艇づくりなどに強制就労させられるなかで、尊い生命を奪われました。
 あの苦しみ、あの怒り、あの悲しみを私達は、決して忘れることはできません。そして、世界のいかなる国のいかなる人類の上にも二度と繰り返させてはなりません。
 被爆四十三年、今ここに全国の建設労働者職人の総意により、原爆殉教者を慰霊し、平和と核廃絶のため闘う証として、不戦平和の塔を建立いたしました。
 御魂よ、安らかにお眠りください。

 昭和六三年八月八日
 長崎県建設産業労働組合
 全国建設労働組合総連合

 

 
 電気通信労働者 原爆慰霊碑  [TOP]
 
(2) いのちのかぎり 消えぬ被爆の?みと いかに伝えむ 澄みしこの瞳に
(3) この慰霊碑は、1945年8月9日の原爆投下により尊い生命を奪われた電気通信労働者の御霊をなぐさめ、二度と過ちを繰返さない決意を明らかにするため、被爆30年にあたる1975年、全国の電気通信産業で働く人々の浄財によって建立されました。
 台座は3つの面が組み合わされています。
 その一面は、原爆被爆者を表し、
 その一面は、電気通信労働者を表し、
 その一面は、核廃絶、恒久平和を誓う市民(国民)を表しています。
 ブロンズは「平和の炎」を造型したものです。
 「原爆被爆者」と「現在そして未来をも電気通信業務に働く労働者」と「原爆許すまじ、核廃絶、世界の恒久平和を達成するために手をとりあう、すべての市民」が、がっちりとスクラムを組み、ドッシリと重い「平和の炎」をかつぎ、高くかかげてその日まで歩み続けよう、との誓いをこめた姿を象徴したものです。

被爆後50年
1995年8月9日
全国電気通信労働組合

 

 
 平野町6  [TOP]
 
 
 

 
 桜の碑  [TOP]
 
(2)    桜の碑

 被爆地長崎と共に生きた桜、明日に幸あれ

 平成14年霜月

 敦子毛筆同好会
 前田敦子
 有志一同
(3) 桜の碑 由来

 昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。
 原子野と化したこの地は、1本の草木も生えないと言われました。
 そのような中、市民の願いを込めて植樹された、桜の木の公園が、この地に完成しました。
 それから50年、桜の木は樹齢50年の大樹にまで成長し、その間、長崎の復興を見守り、市民の心を癒してくれました。
 しかし被爆50周年を機に、公園は再整備され、24本の桜の木は、この公園を去ることを余儀なくされました。
 長崎の復興を見守り続けた24本の桜、それは市民の心を癒し、励まし、共に成長してくれました。
 その事実を、忘れることなく、感謝の想いを込めて、この地に改めて、この桜の碑を建立することにしました。
 原子野の地に、たくましく息衝いた、桜の木の強さを碑にたくし、戦争のない、真の恒久平和の祈りを込めて。
 平成24年(2012年)4月桜の碑建立の会代表 前田敦子 他 役員一同

 長崎新聞にこの碑に関する記事(2019/03/26)がある

 関係者によると、一帯には戦災からの復興を願って桜が植えられたが、その一部が被爆50周年の公園再整備時に伐採されるなどした。戦後復興を見守ってきた桜への思いを込め、同市城栄町の前田敦子さん(88)が2002年11月、自費で建立。桜の花びらをデザインした碑には「被爆地長崎と共に生きた桜、明日に幸あれ」と刻まれ、建立翌年から、桜の時季に会を開いている。

(4) 当時 1本の草木も生えないと伝えられた爆心地、復興を見守り今日まで安らぎを与えてくれた桜を通じ 私たちは被爆者の慰霊、平和への願いを込め この地に碑を建立するものである。

 敦子毛筆同好会
 代表 前田敦子
 有志一同

癒し、励まし、共に成長してくれました。
 その事実を、忘れることなく、感謝の想いを込めて、この地に改めて、この桜の碑を建立することにしました。
 原子野の地に、たくましく息衝いた、桜の木の強さを碑にたくし、戦争のない、真の恒久平和の祈りを込めて。
 平成24年(2012年)4月桜の碑建立の会代表

 

 
 平和の母子像  [TOP]
 
 男たちが戦場に向かったとき、女たちもまた勝利を祈った。しかし、広大な大陸や、はるかな海の島々では、数知れない人々の血が流されていった。そして遂に一九四五年、沖縄での惨劇についで、八月六日広島、九日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。
 ああ、あの閃光の下で、数万もの男女、無数の母と子が灼かれ、ひき裂かれ息絶えた。
 あれから四十余年、いま第二の核戦争へとシグナルは点滅し、地球は破滅の渕にある。
 戦争も核兵器も許してはならない。命あるすべてのものが生きる、この緑の大地を、地球を守ろう。
 それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再び、あの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。

 1987年8月1日
 長崎平和の母子像を建てる会
 

 
 原爆資料館  [TOP]
 
原爆資料館の展示物は以下のサイトでもみることができます。

原爆資料館のHPはコチラ

ガイダンスビデオ(1分18秒)はコチラクリックのちのすぐのビデオボタンをクリック

A  1945年8月9日
原爆投下前の長崎の街や風景、市民生活を展示しています。

B  原爆による被害
原爆投下直後の長崎の街の惨状を再現しています。

C  核兵器のない世界
戦争と核兵器の問題や平和について考えるコーナー

D  ビデオルーム・Q&Aコーナー
原爆記録映画等の上映、QAコーナー、検索システムなど

 

 
 原爆資料館  [TOP]
 
 浦上天主堂での堅信式(1920)
 相当を設置する前の浦上天主堂
 

 
 原爆資料館  [TOP]
 
被爆した浦上天主堂の側壁
 

 
 原爆  [TOP]
 
プルトニウム型原爆
 

 
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