2025年_長崎くんち
 写真総数:25枚



 

 

 

 
 
初めに  [TOP]
 
 2025年7月23日に長崎伝統芸能館(長崎グラバー園内)で長崎くんちの展示物を見た後、オランダ通りを歩いた時の写真です。
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 長崎伝統芸能館  [TOP]
 
長崎伝統芸能館のウエブサイトによれば

 長崎おくんちホール (長崎伝統芸能館)

 長崎くんちに奉納される曳物、傘鉾、担ぎ物などを展示。

 「長崎くんち」とは、約370年の歴史と伝統を持つ、諏訪神社の例大祭です。現在は10月の7、8、9の3日間行っていますが、かつては旧暦の9月9日に行われていました。ここのか、を9日(くにち)と読みますが、それが「くんち」と呼ばれるようになったと言われています。長崎くんちの奉納踊は、1979年(昭和54)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 長崎おくんちホール(長崎伝統芸能館)では、「長崎くんち」に奉納される白龍、青龍や、各踊町の奉納踊りを先導する豪華な飾りのついた「傘鉾」などを展示しています。

長崎くんち公式ウェブサイト


 

 
 阿蘭陀漫才  [TOP]
 
阿蘭陀漫才(おらんだまんざい)については以下のブログに詳しい

 東京生まれ、長崎育ちの踊りです

 シルクハットをかぶり南蛮服で唐扇子を手にした万蔵と、鼓をもったピエロ風の才蔵がコミカルな掛け合いで観客を魅了する『阿蘭陀万歳』。エキゾチックな長崎らしい演し物として人気の高いこの踊りですが、もともとは花柳流が創作した前衛舞踊で、昭和8年に東京で上演されたのが始まりです。それが長崎の検番に伝わり、これまで見たこともないユニークな踊りとして地元でも評判に。イベントなどでも引っ張りだこの大人気となっていきました。

 『阿蘭陀万歳』の奉納は7年に2回だけ

 『阿蘭陀万歳』は「日本に漂流した2人のオランダ人が万才を覚え、正月の祝儀に回っているうちにふと故国を思い出して感傷にふける」というストーリーです。戦前にはすでに地元でもおなじみの演目でしたが、くんちに登場したのは戦後になってから。昭和26年のことでした。以後いくつかの踊町が奉納してきましたが、今は栄町と新橋町の2町がこれを伝統の演し物としています。つまり、観覧できるチャンスは7年に2回だけ!


 

 
 曳物  [TOP]
 
くんちのミニ辞典のサイトによれば

 曳物(ひきもの)

 川船・唐人船・龍船・御座船・御朱印船・竜宮船・阿蘭陀船・南蛮船等々の船型に車を付けて、大勢で曳くもの。船ではないが「鯨の潮吹き」(万屋町)も曳物に含められる。

 

 
 玉手箱と太鼓  [TOP]
 
 
 

 
 長崎くんちの奉納踊  [TOP]
 
 国指定重要無形民俗文化財

 長崎くんちの奉納踊

 長崎くんちは諏訪神社の秋季大祭で、毎年10月7日から晴天の3日間行われる、荘厳な御神幸と国際色豊かな奉納踊で知られる絢爛豪華な都市型祭礼です。
 長崎くんちの奉納踊りは、寛永11年(1634)、太夫町(現在の丸山町・寄合町)の遊女、高尾・音羽の両名が神前に謡曲「小舞」を奉納したのはじまりと言われています。
 奉納踊には、国際貿易都市・長崎の土地柄を反映し、日本固有の伝統芸能のほか、中国やオランダなど海外の文化の影響を受けて成立したものが見られることが特徴です。
 この大祭に奉納される奉納踊りは、歴代の長崎奉行が援助を与えたことや、唐蘭貿易により潤う長崎商人の豊かな経済力もあって年々盛大になり、華やかさを増していきました。
 長崎くんちの奉納踊は、長崎独特の文化的伝統を伝える重要な伝統芸能として、昭和54年(1979)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 

 
 長崎くんち  [TOP]
 
 「くんち」(ライデン国立民俗学博物館収蔵)
 「諏訪祭礼図絵巻」(長崎歴史文化博物館収蔵) 踊町が渡御(お下り)(※)の行列を先導し、西役所や町年寄宅などで踊を披露しながら御旅所(おたびしょ)(※2)に向かうという、江戸時代のスタイルがよく描かれています。

※引用者注:「お下り」とは関連ブログによると

 諏訪神社の本宮からお旅所の仮宮まで、諏訪・住吉・森崎の三基の御神輿が下ります。
 御神輿を担ぐのは神輿守町(みこしもりちょう)と呼ばれる旧長崎村の各郷の人たちです。


※2:引用者注:御旅所(おたびしょ)のWIKIによれば

 御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡行の道中に複数箇所設けられることもある。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。


 

 
 曳物  [TOP]
 
 
 

 
 龍踊(じゃおどり)  [TOP]
 
龍踊(じゃおどり)について以下のブログの記事を紹介します。

 諏訪町 龍踊 じゃおどり

 諏訪町の名は諏訪神社が最初にこの地に祀られたことに由来します。その諏訪神社のおつかいが「白蛇」ということで、明治19年のくんちで初めて白蛇の「龍踊」を奉納。その後龍(じゃ)の数は次第に増え、現在は青白の2匹の大龍、青白の2匹の子龍、そして孫龍という3世代計5匹の龍が登場し、息もつかせぬ演技で観客を魅了しています。(2015年7月取材)

 

 
 舞い物(まいもの)  [TOP]
 
 舞い物(まいもの)

 「龍踊」が代表的なものです。長崎くんちといえば龍踊を連想するほど全国的にも有名で、国際色の最も濃い奉納踊りの一つです。
 

 
 傘鉾 銀屋町  [TOP]
 
傘鉾については以下のサイトの記事を紹介します。

 紆余曲折ありながらも踊町の熱意と市民の力で続けてこられた長崎くんちですが、町の印である傘鉾について教えて下さい。

 越中先生

 各町内の歴史とともに趣向されたもので、市の文化財になっているものもあります。長崎の傘鉾が次第に大型化したのは1750年頃からであろうと考えます。長崎の傘鉾は実によく趣向されていて、今年の新大工町の傘鉾の飾(だし)には紅葉の下に「鹿」がおかれていたり、新橋町の飾には「香炉」や「香合」などが配されていること、諏訪町の傘鉾の幕(たれ)には「白狐」が長崎刺繍されていることなどいろいろと見どころがありますね。

 傘鉾のつくりは?

 傘の上部に置かれる飾り物は、「飾(だし)」と呼ばれます。その意匠は町名にちなむものであったり、町の歴史によるものであったり、あるいは奉納踊と合わせたものであったりと様々です。そして、傘のまわりに取り付けられる円状のものを「輪(わ)」といい、輪の多くはビロードの布に町名を記したもので、ほかに注連縄(しめなわ)、蛇篭(じゃかご)などがあります。そして、輪の下から下げられている布が「垂れ」です。垂れはそれぞれいろいろないわれがあります。
 
 どのくらいの重さ?

 傘鉾は一人の人間が担ぎ演技することが前提で、それが可能な最大重量といわれる130〜150kgにまでなりました。
 傘の上に大きく重い飾りの飾(だし)があるためそのままでは持てません。上下のバランスを取るために一文銭「寛永通宝」を300枚×10本、3000枚ほど心棒の下にくくり付けています。現在のお金5円玉では軽すぎて一文銭でないと役に立たないそうです。」

 

 
 弁天橋から南をのぞむ  [TOP]
 
左手に大浦天主堂停車場が見える
 

 
 我が国最初の気球飛揚の地跡  [TOP]
 
 わが国最初の気球飛揚の地跡

 文化2年(1805)1月8日、当時入港中のロシア使節レザノフ一行の軍艦乗務員がこの地から当時、日本人が見たことのない、今でいう熱気球を揚げて見せた。
 自国の先進ぶりを”アピール”したものと思われます。
 

 
 広場場商店街の門(唐人屋敷 象徴門『誘導門』)  [TOP]
 
広場場商店街の門(唐人屋敷 象徴門『誘導門』)

オランダ通りと福建通りの交差点付近、門の題字に「廣馬場」、左の柱には「松柏長留天地春」、右の柱には「芝蘭自○※山川秀」と読める。左柱の隣に「唐人屋敷跡」(※2)、「長崎(小島)養生所跡資料館」(※3)とある。

※:○の字は機種依存文字、ヘンに戸と口、ツクリに”牧”の右側の文字が入る。

※2:唐人屋敷跡のサイトによると

 寛永12年(1635)から中国の貿易窓口は長崎港だけとなりました。来航した唐人たちは、はじめ長崎市中に散宿していましたが、密貿易が増加し問題となっていきます。幕府は鎖国後の出島と同じように、元禄2年(1689)、唐人たちを収容する唐人屋敷を建設。唐人屋敷は長崎奉行所の支配下に置かれ、町年寄以下の地役人が管理しました。
 輸入品の主なものは薬種、砂糖、織物、陶磁器。持ってきた貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日まで唐人屋敷で生活していたといわれています。
 しかし天明4年(1784)の大火で関帝堂を残して全焼していしまいます。この大火の後、唐人は自前の建築を許されるようになり、より中国文化を取り入れた建造物が作られていきました。
 出島と共に海外交流の窓口として大きな役割を果たした唐人屋敷ですが、安政6年(1859)の開国後は廃屋となり、明治3年(1870)に焼失。その後は市民に分譲されました。
 現在わずかに残る遺構として、明治期に修復改装された土神、観音、天后の3堂の遺跡と、明治元年(1868)に福建省泉州出身者の手によって建てられた旧八門会所、明治30年(1897)に改装、改称された福建会館があります。


※3:長崎(小島)養生所跡資料館のサイトによると

 「長崎(小島)養生所」は、長崎海軍伝習所教官であったオランダ軍医ポンぺの病院設立の願いにより、1861年(文久元)に開設された我が国最初の近代西洋式病院です。
 日本近代西洋医学発祥の地に整備された長崎(小島)養生所跡資料館では、仁田佐古小学校新校舎建設工事に先立つ埋蔵文化財発掘調査により検出された養生所遺構の一部をを露出展示、ヨーロッパ製薬瓶など病院関連出土遺物等を展示するとともに、映像やVRを用いて、養生所及び関連施設である医学所、分析究理所の歴史的価値や、「日本近代西洋医学教育の父」と称されるポンぺの功績などを紹介しています。


 

 
 中華街南門(朱雀)  [TOP]
 
中華街南門(朱雀)の解説サイトの説明によると

 新地中華街の象徴、街を見守る四神が棲む門

 中華街の四方にそびえる色鮮やかな中華門は、新地中華街商店街振興組合の人たちが横浜・神戸と並ぶ中華街に発展するよう願いを込めて、本場中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて築造したものです。東、北、南門は高さ、幅とも9メートル。西門は高さ9メートル幅4メートル、屋根瓦は中国製。昭和61年4月に完成しました。
 門の裏側には東門では青龍、西門は白虎、北門は玄武(亀と蛇)、南門は朱雀と門を守る神が彫られており、各門は正確に東西南北を示す方角に位置しています。これは、古代中国の地相占い風水に基づくものです。銅座川に面する北の玄武門は水を呼び込むとされ、湊公園へと開かれた南の朱雀門は火を呼び込むとされています。そして鬼門の北東には、華僑の菩堤寺である崇福寺があり、邪気を封じています。


 

 
 銅座橋  [TOP]
 
 
 

 
 春雨交差点  [TOP]
 
ベルナード観光通りの入口
 

 
 ベルナード観光通り  [TOP]
 
 
 

 
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