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| 初めに
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2025年7月20日に旧新橋停車場の特別企画展(日本海縦貫線100年展)を見に行った時の写真です。
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| 旧新橋停車場
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鉄道歴史展示室(旧新橋停車場)のHPの常設展示物のご案内によれば
「 1.企画展示 鉄道の歴史や汐留界隈の郷土史などをテーマとした企画展を開催します。 2.映像の記憶 鉄道開業の歴史的な経緯や往時の新橋停車場と、汐留の活気ある様子などを伝える映像を、プラズマディスプレイによって見ることができます。 3.バナー 階段の上の天井から垂れ下がるバナーは、港区立郷土歴史館所蔵の四つの錦絵の一部を複製したもので、いずれも明治時代の新橋停車場を描いています。 4.汐留の記憶 年表や地図によって、汐留地区の移り変わりと鉄道の発展の歴史を紹介します。 5.旧新橋停車場の駅舎再建 縮尺100分の1の模型によって再建された旧新橋停車場駅舎の全容を示し、設計の基本方針を説明しています。 6.伊豆斑石 (いず まだらいし) 伊豆斑石は火山灰が固まってできた凝灰岩で、かつて下田付近で産出し、旧新橋停車場駅舎の外壁の大部分に用いられたと思われる石材です。現在では採掘されていません。 史跡指定範囲外のプラットホームの石積みに使われていた伊豆斑石を薄切りにして展示室の壁面に展示し、当時の外壁の感じを再現しています。 7.遺構見学窓 1階展示室の床の一部はガラス張りで、開業当時の駅舎基礎石の遺構を見ることが出来ます。正面玄関階段とプラットホームの先端部分でも、史跡の一部をじかに見ることができるようにしました。 8.駅舎とプラットホーム 発掘された旧新橋停車場駅舎やプラットホームの石積みや基礎の構造を紹介します。 9.江戸東京の情景 階段の壁面には汐留を中心に、東京の町並みを写した古写真などを展示します。 10.大型陶板壁画 大型の陶板上に三代歌川廣重の「東京名所之内 新橋汐留蒸気車鉄道局停車館之真図」(明治12年)を複製したものです。 三代廣重は写実的な作品を描いたことで知られており、この作品は、今回の駅舎再建にあたり石材や外観の色合いを決定する参考資料の一つとなりました。 11.史跡『旧新橋停車場跡』 停車場遺構の発掘調査の写真や往時の構内平面図とともに、旧新橋停車場跡が史跡に指定されるまでの経緯を説明します。 12.出土物が語る「旧新橋停車場」 お雇い外国人が使っていた西洋陶磁器、改札鋏や工具類など鉄道業務に用いられた金属製品、汽車土瓶など、発掘調査で出土した遺物を展示しています。 」 |
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汐留駅
汐留駅 (国鉄)のWIKIによれば 「 汐留駅(しおどめえき)は、現在の東京都港区東新橋1丁目(汐留地区)にあった日本国有鉄道(国鉄)の駅である。東海道本線の貨物支線(東海道貨物線)上にあった。現在の新橋駅の東側に所在していた。 かつての日本の鉄道開業時に建設された初代新橋駅であり、日本初の起点となる鉄道駅であった。長らく東京のターミナル駅として機能し、1900年(明治33年)に大和田建樹が作詞した「鉄道唱歌」では「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」と歌われた。 その後1914年の東京駅開業により旅客営業を終了、汐留駅に改称し貨物駅となる。1986年に貨物駅としても廃止され、その役目を東京貨物ターミナル駅に譲った。跡地は汐留の超高層ビル街へと再開発された。 1872年10月14日(明治5年9月12日)、日本最初の鉄道路線の起点として開業した初代新橋駅として始まった。リチャード・ブリジェンスの設計による木造石張り2階建ての西洋建築の駅舎があり、当時のホーム構造は頭端式ホームだった。 1873年(明治6年)9月には、当駅と横浜駅(初代・現在の桜木町駅)との間で日本初の貨物列車の運行が開始された。1日1往復の運行で、イギリス製の有蓋車や無蓋車を使用していたという。 しかし、1914年(大正3年)12月20日に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、旅客営業が廃止された[1]。駅構内が広大だった当駅は貨物駅として再使用されることになり[3]、汐留駅と改称し、同時に、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)と改称している。なお、駅名改称に反対した人もいた。また、歴史ある駅舎を利用して鉄道博物館を建設するという構想もあった[4]。 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により開業時からの駅舎は焼失し、その後1934年(昭和9年)3月に鉄筋コンクリート2階建ての駅舎に建て替えられた。 1959年(昭和34年)に当駅 - 梅田駅間で日本初のコンテナ専用貨物列車「たから号」が運転されるようになり、1964年(昭和39年)には東京駅の小荷物機能を移転し、小荷物取扱を開始した。その後は、関西地方・山陽地方・九州方面へ向かう貨物列車・荷物列車のターミナル駅として君臨し続けたが、荷物輸送が宅配便の登場で衰退し、貨物輸送は年を追うごとにコンテナ列車中心へと変化していった。しかし、後記するように東海道新幹線開業に関連して敷地の一部を提供したことも相まって、扇形状に広がっていた駅敷地が狭くなってしまった。これにより結果として、年々増加する荷役や保管に際して広大な敷地を必要とする、大小さまざまなコンテナの取扱量に対応できず、やがて鉄道による荷物輸送が1986年(昭和61年)11月1日のダイヤ改正で廃止されると、東京貨物ターミナル駅(1973年開業)に機能を譲り、汐留駅も114年に及ぶ歴史に幕を閉じた。 」 ※汐留駅の空中写真・古地図等はコチラのブログが詳しい。 1986年汐留貨物駅廃止前後の地図の比較はコチラ |
| 駅舎玄関遺構
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ここに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったことが、当時の写真からわかっています。
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| 旧新橋停車場
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この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。
新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・ブリジェンスの設計により、1871(明治4)年5月に着工、同月12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。 1914(大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森(からすもり)駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。 文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。 1986(昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡『旧新橋停車場跡』として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。 |
| 芝地区旧町名由来板
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汐留(しおどめ)
昭和七年(1932)、汐留町一、二丁目および新銭座町の一部を合併して設立された町で、当時は町域のほとんどが元汐留駅の構内に含まれており、北東に汐留川、東に浜離宮を控えた場所にありました。汐留川は土橋で堀止まりのため潮汐の干満は外堀には通じず、汐がこの堀で止まることから汐留川と呼ばれるようになりましたが、いつの頃からかこの辺りの地名のようになったとのことです。 芝口(しばぐち) かつての豊島郡芝村(後に本芝、現在の芝四丁目)を中心として「芝」と呼ばれる広い地域へ通じる場所ということから芝口と称されるようになったようです。宝永七年(1710)には、一時期江戸の南の出入口として機能した芝口門がたてられ、門の南側の日比谷町一、二、三丁目は芝口一、二、三丁目と改称されました。文政年間(1818〜1830)、芝口三丁目の名主を務めた長兵衛の十一代前の先祖長兵衛は芝口の前身、日比谷町の開拓者と伝えられています。 源助町 源助町は江戸時代のはじめ、名主役の無浪厳助が創設した町屋です。その頃、源助町横丁の桑山家屋敷内には水が赤く、飲料にもならない「油の井(あぶらのい)」と称する井戸がありました。あるとき、この井戸から弁財天の像を一体掘り出したところ、美しい清水が湧き「弁天の井」と称するようになりました。この弁天様は明和六年(1769)、当時芝口三丁目にあった日比谷稲荷へ相殿(あいどの)して祭られるようになったそうです。 |
| 旧新橋停車場
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HPの企画展の説明によれば
第66回企画展 ポスターイメージ 日本海縦貫線100年展 〜知られざる大動脈〜 2025年4月8日(火)〜11月24日(祝・月) 前期:4月8日(火)〜7月13日(日)北陸本線・信越本線編 後期:7月19日(土)〜11月24日(祝・月)北陸本線・羽越本線・奥羽本線編 日本海側への鉄道が通じてから昨年で140 年、そして羽越本線が全通し、関西から日本海沿いに青森までを結ぶ「日本海縦貫線」が形成されてから100 年が経ちました。 北陸本線・信越本線・羽越本線・奥羽本線とそれぞれ異なる目的で建設された各線が、一体化することで「日本海縦貫線」として機能し、東海道・東北ルートと並ぶ日本の鉄道の骨格を形成する鉄道ルートとして成長してきたあゆみと、各線の地域との関わりや、果たしてきた役割を紹介します。 ※引用者注:企画展の図録が1800円が鉄道博物館1FミュージアムショップTRAINIARTで販売しています。 |