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| 初めに
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2025年7月23日に長崎市の大浦天主堂付近を歩いた時の写真です。
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<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ----------------------> |
| グラバ―通りへの看板
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旅関連のブログによれば
「 ちゃんぽん発祥の店である四海楼の横から、大浦天主堂やグラバー園へと向かう坂道が、グラバー通りです。 通りの両側にはお土産屋さんや飲食店などが軒を連ねています。 」 この橋は弁天橋 向かいの駅は大浦天守堂停車場 |
| 弁天橋と洋式ホテル
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弁天橋越しに見る下り松と南山手。文久3年(1863)頃に開業したベルビュー・ホテルの看板が茂みの中に見えます。ベルビュー・ホテルは、長崎最初の大型ホテルで国内外の知名人が多く宿泊しました。現在は長崎全日空ホテルグラバーヒルが建っています。居留地時代、下り松の大浦川沿いには、ホテルや居酒屋が立ち並んでおり、写真中央には、ゴールデン・イーグル・ホテルが見えます。
※引用者注:この説明板については以下のような補足?説明があります。 「 これ(「弁天橋と洋式ホテル」という説明板)はつい先日、大浦海岸の松ヶ枝橋で見かけた「弁天橋と大浦川」。松ヶ枝橋を渡った先にあった。大浦川の河口で、古写真の撮影場所は松ヶ枝橋からであり、当時、大浦川両岸が居留地や船の係留場として賑わった状況を説明するため、最近、ここに設置されたのだろう。 しかし、弁天橋は長崎市営松が枝町第2駐車場の暗渠下で確認できない。弁天橋には橋脇に「弁天橋と洋式ホテル」と別の説明板があった。 松ヶ枝橋に設置しているのに、居留地時代の貴重な「松ヶ枝橋」の説明は何もない。橋の説明板の場所から電車通り、川の対岸の駐車場階段下を見てもらいたい。 明治3年(1870)に木造の「松ヶ枝橋」が完成。松ヶ枝橋は当初、「下り松橋」と呼ばれていて、明治中期に鉄橋に架け替えられ、後に鉄筋コンクリート橋となった。 鉄橋の松ヶ枝橋の姿は、次の「目録番号: 328 大浦海岸通り(1)」を参照。 鉄橋時代の橋脚が、現在の橋の東側に一部残っている(山口広助氏の丸山歴史散歩)。 ここは松ヶ枝橋の古写真とも、2枚を載せた説明板とした方が良いではないか。 最後は資料が古いが、平成18年2月第2版「長崎さるくマップブック」裏表紙。彩色絵葉書のタイトルは「長崎大浦松江橋通り」。これは「弁天橋通り」ではないか。そのまま、公式資料に利用しないようにお願いしたい。 」 ※引用者注:この説明板は「弁天橋」というよりは「弁天橋通り」というほうがいいのではというという指摘なのだろう。 |
| 中華レストラン 四海楼(ちゃんぼん発祥の店)
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四海楼(しかいろう)・ちゃんぽんの歴史資料展示室 『ちゃんぽんミュージアム』
四海楼のHPによれば 「 四海樓の歴史 「四海樓」は、1899(明治32)年に中華料理店として長崎の唐人屋敷跡である広馬場町で創業しました。 創業者は中国の清朝時代の福建省出身で、長崎の華僑同胞や中国人留学生のために「ちゃんぽん」「皿うどん」を考案しました。「ちゃんぽん」は、中華料理の調理技術と長崎の山海の食材によって生まれた長崎生まれの中華料理なのです。1973(昭和48)年に松が枝町に移転し、現在も長崎最古の中華料理店として続いています。 皿うどんの由来 「皿うどん」もちゃんぽんのバリエーションとして中華料理四海樓の創業者である陳平順が考案しました。 ちゃんぽん麺を一度焼いてから具材をと一緒に炒め、少なめのスープを加えて麺にしみ込ませる調理方法で、平皿に盛られた汁なしの麺料理からそのまま「皿うどん」と名前がつきました。その後、調理工程の簡便さを追求して麺を細くしてパリパリの揚げ麺にし、野菜や豚肉、魚介がたっぷり入ったあんをかけた皿うどんも考案しました。その作りやすさから長崎の家庭から日本中に広まり知られるようになりました。 」 ちゃんぽんミュージアム関連のブログによれば 「 ミュージアムでは、四海樓の創業当時からの歴史や、「ちゃんぽん」「皿うどん」の誕生秘話、そして四海樓で「ちゃんぽん・皿うどん」を楽しんだ著名人たちの姿などが紹介されているほか、1920年代の出前用の器《蓋付ちゃんぽん丼》などの資料も展示されています。 」 |
| わが国ボウリング発祥の地
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日本最古のボウリング場は、わが国最初の英字新聞であり初の近代活版新聞である「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」に1861年(文久元年)6月22日の日付で新装開店の広告が掲載された、インターナショナルボウリング・サロンである。
この史実をもとに、昭和47年(1972年)より6月22日を「ボウリングの日」として制定した。 その後、開港されていた横浜や神戸にも、ボウリングサロンが次々とオープンした。 1864年(元治元年) 横浜 5月7日付の英字新聞「ジャパン・ヘラルド」に、横浜開港当時、外国人居留地であった現在の"港の見える丘公園"内にボウリングサロンが開店したという広告が掲載された。 1869年(明治2年) 神戸 4月20日 神戸に、ボウリングレーン付きの駐在外国人の会員制クラブ「ユニオンクラブ」が誕生した。その後現在の神戸市庁舎南隣の東遊園地に移転し、「神戸クラブ」の名称で長い間親しまれました。 1952年(昭和27年) 東京 12月20日に、東京・神宮外苑、現在の秩父宮ラグビー場付近に、米軍の格納庫を利用し、民間商業使節として日本初のボウリングセンターがオープンした。2002年で50周年を迎えた。 2003年(平成15年)6月22日「ボウリングの日」 社団法人 日本ボウリング場協会 (社団法人化30周年記念事業として この案内板を建てた) ※引用者注:ボウリング発祥の地については、謎があるようで、そのことに触れた本の内容を以下に簡単に紹介する。 「 第3章 幕末の長崎とボウリング 1 日本 ボウリング発祥の地 長崎 ・・・・インターナショナル・ボウリング・サルーン・・・・ ボウリングが日本に最初に伝わってきたのは幕末の長崎だったことは 間違いない。しかし、本当の最初のレーン設置は、 いったい長崎の何処だったのだろうか・・・・・・? 疑問がある。 従来の歴史上ではインターナショナル・ボウリング・サルーンが最初。場所は英字新聞の挨拶広告にあるようにナガサキ・ ヒロババ・ストリートとされている。現在の籠町である。その規模や正確な番地は不明。 開業挨拶は文久元年(1861年)6月22日。経営者アメリカ人のヘンリー・ギブソン氏。 調査の結果、ヘンリー・ギブソン氏は、後にエクスプレス・ホテル(下り松36番地)という小規模ホテルのオーナーでもあった。(後略) 」 |
| 軍艦島デジタルミュージアム
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軍艦島のHPによると
「 艦島デジタルミュージアムとは 最新のデジタル技術であの頃の軍艦島にタイムスリップ! 明治日本の産業革命遺産として2015年7月に世界遺産登録された軍艦島(端島)。 人口密度世界一の活気溢れる島の様子や、 上陸ツアーでは見ることのできない立入禁止区域など、 巨大スクリーンやプロジェクションマッピングで体感できるミュージアムです。 デジタル・テクノロジーが永遠に越えられない壁。それが∞(無限)の量を有するアナログの世界。 軍艦島は、まさに現代のアナログ世界の帝王です。 約半世紀前まで、ここに確実に存在した島の人々の息づかいや荒々しい自然、 そして、日本の近代化を支えた英知と生命の営みというリアル。 軍艦島デジタルミュージアムは、こうした「リアル」に着目しました。 上陸ツアーでは見ることのできない、立入禁止区域の画像、映像をアーカイブし、それを最新のテクノロジーである、VR(バーチャルリアリティ)・プロジェクションマッピング・30mの巨大スクリーンなどで再現しています。 時とともに変化していく軍艦島の記録を取り続けることと、同時にコンテンツのアップグレードも常に行って、 このアナログの「∞の壁」を打ち破ることに挑んでいます。 人々の記憶から忘れ去られていたこの島が、明治日本の産業革命遺産のひとつとして2015年7月に世界遺産登録され、日本の近代化とは何かを想起させる契機となりました。 わずか0.063km2中に当時世界最大の人口密度を抱えた絶海の孤島。 その活気溢れる当時の営みを最新のデジタルデバイスを通じて眼前に展開することで、 皆様の無限の想像力に働きかけ、鮮やかな彩を伴って今に甦って くることを願っています。 軍艦島デジタルミュージアム プロデューサー 久遠裕子 」 |
| グラバー坂入口
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| 南山手居留地跡_長崎電信操業の地_国際電信発祥の地
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| 南山手居留地跡
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安政の開国(1859)によりトーバス・グラバーをはじめ多くの欧米人が貿易や商売などのため来航しました。そのため、梅ヶ崎、常盤、大浦、下がり松(現在の松ヶ枝)の海岸地帯は埋め立てられ「外国人居留地」となり、洋風住宅や商社などが次々と建ち並んでいきました。文久3年(1863)には、南山手町、東山手町など計9町の町名がつけられました。伝統的建築物群保存地区であるここ南山手町には、旧グラバー住宅や大浦天主堂をはじめ、幕末・明治期の建築物が多く残り、異国情緒あふれた街並みが見られます。
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| 国際電信発祥の地
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1851年、英国人ブレッド兄弟がドーバー海峡に世界最初の海底ケーブルを敷設して以降、海底ケーブル網は世界的に発達していきました。
明治4年(1871)デンマーク系の大北電信会社によって、長崎〜上海間、長崎〜ウラジオストック間に海底電信線が開通(通信所は南山手にあったベルビューホテルの一角)し、日本と世界が初めて即時に情報交換できるようになりました。 翌明治5年(1872)これと連絡する東京〜長崎線建設の際、わが国政府による最初の海底ケーブルが関門海峡に敷設。これ以降、わが国の海底線網は発展をとげ、今日の情報革新時代を迎えるに至っております。 (NTTワールドエンジニアリングマリン株式会社ホームページ参考) |
| 南山手ルートマップ
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| グラバー坂地図
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| ANAクラウンプラザホテル
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| ANAクラウンプラザホテル長崎
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1700円なる本場ちゃんぽんを食べました。動物性油脂を使用していない、ヘルシーなお味でした。
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| 大浦 聖コルベ館
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大浦 聖コルベ館
アウシュビッツで1人の青年の身代わりになられたコルベ神父が、長崎にきて1年生活された場所。 フランスからのルルドの水も販売しています。 ※引用者注:コルベ神父を紹介する記事がありました。2025年1月28日のNHKの記事です。 「 【コルベ神父とは】 マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は、1894年にポーランドで生まれたカトリックの神父で、キリスト教の布教のため、1930年から長崎で活動を始めました。 1936年には、長崎市本河内に開設した修道院の中に、現在の「聖母の騎士学園」の前身となる「本河内神学校」を開校しました。 その後、ポーランドに帰国していた際に第2次世界大戦が勃発し、1941年に、ナチスに捕らえられ、アウシュビッツ強制収容所に送られました。 そこで強制労働に従事されられる中、同じく強制収容所に収容されていた妻子がいる若者の身代わりとなることをみずから申し出て犠牲となりました。 死後、1982年にヨハネ・パウロ2世によって「聖人」の位を受けました。 」 |
| 大浦天主堂
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大浦天主堂のWIKIによれば
「 大浦天主堂(おおうら てんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である。江戸時代幕末の開国後、1864年(元治元年)に竣工した。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。1859年日本の開国とともに長崎に外国人居留地が作られ、その外国人信徒のために建設された。日本二十六聖人とゆかりの深い教会堂とされ、彼らの殉教地である長崎市西坂の方角をほぼ向いている。 1945年(昭和20年)8月9日の長崎市に対する原子爆弾の投下では[1]、全壊を免れた。 1953年(昭和28年)、国宝に指定された。また、2007年(平成19年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まり、2018年(平成30年)に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つである[2][3]。2016年(平成28年)に日本初の小バシリカに指定された[4]。 キリスト教の信仰の場であり、潜伏キリシタンの存在とその信仰を伝える場となっている[注釈 1]。同時に長崎有数の観光地でもあり、拝観は有料となっている。 外観はゴシック様式で、中央に八角柱の尖塔を1つ備えている。建築設計はフューレ、プティジャンの2名によるもの。建築施工は天草御領島出身の小山秀之進が大工棟梁として施工[6]。建築様式は3本の塔を持つゴシック風の構造ながら、正面中央の壁面はバロック風で、外壁はなまこ壁という和洋折衷の意匠であった。なお、創建当時にあった側塔はほどなく大風で倒壊したとされている[7][8]。正確な時期や経緯は不明であるが、現存する古写真から明治以前に撤去されたことは確実だと考えられている[9]。 その後1875年から1879年にかけて増築工事が行われている。外壁は創建当初の壁の外側に煉瓦塀を造り、白い漆喰で塗り固めたものになり、外観を完全にゴシック様式で統一するなど、創建当時の外観から大きくその姿を変えた[10][11]。木造だった創建時に対し、1879年(明治12年)5月22日に献堂された新教会堂は九州初の煉瓦造構造となった[12]。 内観はリブ・ヴォールト天井で「こうもり天井」とも呼ばれている。施工者の小山秀之進が日本建築の技術を応用して西洋建築を再現したものとなっており、竹をしならせて曲面を作り、土と漆喰で固めた構造となっている[13]。 」 |
| 大浦天主堂とラテン神学校
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ラテン神学校とはHPの説明によれば
「 旧羅典神学校 国指定重要文化財 信徒発見後、司祭館の屋根裏に作られた隠し部屋で日本人神学生の育成が始まりました。1873年、キリシタン禁制の高札が撤去され信仰が黙認されるようになると、弾圧を逃れて国外へと渡っていた神学生たちが帰ってきます。1875年には「長崎公教神学校」が開設され、ド・ロ神父の設計によるこの校舎が建てられました。 当時は日本でもラテン語のミサが捧げられ、神学生たちの授業もラテン語が用いられていました。そのため、通称「羅典(ラテン)神学校」と呼ばれています。 ユニークな設計と、長崎における木骨レンガ造建築の例として、1972年に国の重要文化財に指定されました。 旧長崎大司教館 県指定有形文化財 神父の執務室・住居として、大浦天主堂よりも先に司祭館が建てられました。現在の建物は老朽化のため1915年に建て替えられた2代目となり、旧羅典神学校と同じくド・ロ神父による設計で、敷地の高低差を巧みに利用したレンガ造(一部木造)となっています。 1959年に長崎教区が「大司教区」へ昇格したことに伴い「大司教館」と呼ばれるようになりました。その後、長崎大司教区の中心機能が浦上へと移動したため「旧長崎大司教館」と呼称されています。 2011年に長崎県の有形文化財に指定されました。 」 |
| マスコットキャラクタ「ルーチェ」
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大浦天主堂 キリシタン博物館
2025年 カトリック教会において 25年に1度の聖年を迎えます 信徒発見から160周年 長崎は 被爆80年を迎えます ルーチェのWIKIによれば 「 ルーチェ(Luce、イタリア語: [?]、直訳:「光」[1])は、2025年ジュビリーの公式マスコットで、tokidokiの創設者シモーネ・レーニョ(英語版)によってデザインされた[1]。カトリックの巡礼者をイメージしている。 描写 ルーチェは青い髪をしており、黄色いレインコートを着ている。このコートの色はバチカンの国旗をイメージしており、「人生の嵐を乗り越える旅」の象徴でもある。彼女は「絶えない巡礼」を表す巡礼者の杖を持ち、「長く困難な旅」を表す汚れたブーツを履いている。目にはカトリックにおける巡礼の伝統的なシンボルである、ホタテ貝の形のハイライトがある。聖杯が一般的になる以前は、聖杯の代わりに貝が使用されていた。輝く目は「心の希望の象徴」が表現されている。ルーチェは首にロザリオも着けている。ルーチェのデザイナー、シモーネ・レーニョ(英語版)は「ルーチェが若い世代の心に響くこと」を願っていると述べた[5]。 」 |
| 国宝 大浦天主堂
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大浦天主堂はプティジャン司教の指導をもとに1865年2月19日に献堂式が行われた現存する日本で最古の教会です。1597年2月5日西坂の丘で殉教した日本26聖人に捧げられた教会で、殉教地の方向に向けて建てられました。
現在、殉教地である長崎駅間に位置する西坂には、26聖人を記念する聖フィリッポ教会、および26聖人に関連する資料を収蔵した記念館が整備されており、日本のカトリックから公式巡礼地に指定されています。 |
| 大浦天主堂
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| 信者発見百周年(1965年3月17日)
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記念碑文
紀元1865年(慶応元年)2月19日、仏人宣教師プチジャン神父、(後の初代長崎司教)により大浦天主堂が建立されたが、同年3月17日天主堂参観の浦上の住民等十数名が同神父に近づき「私達もあなた様と同じ心の者でございます、サンタ・マリアの御像はどこ」 と云った彼等は300年に亘る厳しい迫害を耐え忍び、ひそかに守り伝え、カトリックの信仰を表明した。日本キリスト信者のこの信仰宣言は史上に例のない事実として全世界を驚嘆させた。その感動的な場面をこの碑に再現し、信者発見百周年記念として、これを建立するものである。 1965年3月17日 信者発見百周年行事委員会 |
| キリスト像等
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左手前からヨハネ・パウロ二世、朝鮮教区 1866年 4殉教者 記念碑、プチジャン司教
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| 朝鮮教区 1866年 4殉教者 記念碑
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朝鮮教区 1866年 4殉教者 遺骨保管 記念碑
韓国カルメモツにて殉教後、ソジツユルに埋葬された4人の殉教者の遺骨を(現)長崎大司教区が1882年から1894年までここ大浦天主堂内に大切に保管してくれたことに感謝し、記念碑を建てる 2016年9月29日 韓国 大田教区長 ラザロ ○興植 司教 |
| 大浦天主堂
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| マリア像
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このマリア像は信徒発見時のマリア像ではなく、そのごフランスから送られたものだそうです。
ブログによれば 「 創建当初、大浦天主堂は「フランス寺」と呼ばれていた。堂内にはフランスゆかりの贈り物が数多くあり、1865年の「信徒発見」のきっかけとなった「サンタ・マリアの御像」をはじめ、入り口に建つ白いマリア像「日本之聖母」もフランスからやってきた。日本之聖母像は、「信徒発見」の告白から約2年3カ月後、この奇跡的な出来事を記念して天主堂の門前に設置された。 」 信徒発見時のマリア像については、こちらの世界遺産長崎チャーチトラストのサイトに詳しい。 「 イエス・キリストの母で、ナザレのヨセフの妻のマリアは、ある日天使ガブリエルから精霊によって身ごもったことを告げられました。新約聖書に書かれているこのエピソードを受胎告知と言います。 この受胎告知の場面を描いた芸術作品の多さは、その崇敬が多大なものであることを物語っています。 多くの場合、聖母マリアは青色の衣をまとい、純潔を表す白百合などと共に描かれます。 大浦天主堂の聖母子像は、創建当時、ジラール神父によってフランスからもたらされました。 献堂式の約1ヶ月後、聖堂で祈るプティジャン神父の元に、浦上地区から潜伏キリシタンたちが訪れ「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねました。 そして、プティジャン神父はこの聖母子像の前に彼らを案内しました。 このエピソードから、信徒発見のマリア像とも呼ばれています。 」 |
| 国指定重要文化財 旧羅典神学校
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国指定重要文化財 旧羅典(らてん)神学校
指定年月日 昭和47年(1972)5月15日 所在地 長崎市南山手町5-3 大浦天主堂敷地内 所有者 カトリック長崎大司教区 明治6年(1873)、明治政府のキリスト教禁教令廃止を契機に、大浦天主堂のプチジャン神父は神学校の設立を計画し、明治8年(1875)に完成、設計と監督に 当たったのはドロ神父、構造は木骨煉瓦造で、骨組を木造にし、壁に煉瓦を積む特殊なものである。大正15年(1926)までラテン神学校校舎兼宿舎として使用。 ○○司祭館や集会所にも使用され、その間若干の一部改造があった 長崎市教育委員会 令和5年(2023)設置 |
| 大浦天主堂 キリシタン博物館
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キリシタン博物館のHPによれば
「 ようこそ、大浦天主堂へ 国宝「大浦天主堂」の美しい建物は、歴史文化都市・長崎のシンボルとなっています。一方で、その歩みは「信仰の自由」を獲得する苦難の歴史でもありました。わたしたちは、長崎、日本のキリスト教の歩みを紹介する「大浦天主堂キリシタン博物館」を開設し、苦難と喜びの歴史を学ぶとともに、明治以降に神学生がラテン語で授業を受けた「旧羅典神学校」、大司教らの執務室となった「旧長崎大司教館」の歴史的雰囲気も味わっていただければ幸いです。 2018年には大浦天主堂を含む「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。 さあ、美しい教会に秘められたドラマを旅してみましょう。自由に満たされた現代のわたしたちにとって、自由の真の意味と意義を考える機会になることでしょう。ここで、あなたの人生において大切なものと出会うことができるように祈ります。 カトリック長崎大司教区 大司教 中村倫明 旧羅典神学校 国指定重要文化財 信徒発見後、司祭館の屋根裏に作られた隠し部屋で日本人神学生の育成が始まりました。1873年、キリシタン禁制の高札が撤去され信仰が黙認されるようになると、弾圧を逃れて国外へと渡っていた神学生たちが帰ってきます。1875年には「長崎公教神学校」が開設され、ド・ロ神父の設計によるこの校舎が建てられました。 当時は日本でもラテン語のミサが捧げられ、神学生たちの授業もラテン語が用いられていました。そのため、通称「羅典(ラテン)神学校」と呼ばれています。 ユニークな設計と、長崎における木骨レンガ造建築の例として、1972年に国の重要文化財に指定されました。 旧長崎大司教館 県指定有形文化財 神父の執務室・住居として、大浦天主堂よりも先に司祭館が建てられました。現在の建物は老朽化のため1915年に建て替えられた2代目となり、旧羅典神学校と同じくド・ロ神父による設計で、敷地の高低差を巧みに利用したレンガ造(一部木造)となっています。 1959年に長崎教区が「大司教区」へ昇格したことに伴い「大司教館」と呼ばれるようになりました。その後、長崎大司教区の中心機能が浦上へと移動したため「旧長崎大司教館」と呼称されています。 2011年に長崎県の有形文化財に指定されました。 」 |
| 文明堂総本店
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文明堂総本店のHPによれば
「 文明堂総本店は明治三十三年(1900年)「中川安五郎」によって長崎市丸山町に「文明堂」として開業、「安五郎」の経営の知恵と菓子づくりへの情熱が着実にお客様に認められていき「文明堂」を広めていきました。 「文明堂」の屋号は全国にございますが、「文明堂総本店」は1997年に「文明堂」から改称、現在は長崎から福岡、広島までが「文明堂総本店」で構えております。 ここでは「文明堂総本店」ならではの紹介をいたします。 」 |