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| 初めに
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2025年7月23日に思案橋から大浦天主堂停車場まで歩いたときの写真です。
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<----------------------- 画面の横幅標準(これくらいの幅で見ると見やすい) ----------------------> |
| 三幸荘
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長崎市思案橋付近にあるビジネスホテル、カンボジアによくあるようなホテルだという談を小耳にはさむ
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| 長崎路面電車思案橋駅
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思案橋のWIKIによると
「 長崎市で丸山と並んで一番大きい歓楽街である。最寄り駅は長崎電気軌道思案橋停留場。橋としての思案橋は無く、川は暗渠になっている。 この先にあった日本三大遊郭と言われた丸山遊郭(現在の長崎市丸山町・寄合町)に行くか行かないか思案したことから思案橋と言うことに由来する。 」 |
| 長崎路面電車思案橋駅
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運賃150円
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| 長崎路面電車思案橋駅
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思案橋停留場のWIKIによれば
「 歴史 思案橋停留場は1921年(大正10年)、西浜町 - 思案橋間の第3期線開通と同時に開業した[3][4]。当時の終点であり、停留場には2階に食堂を備えたモダンな建物が建っていた[5]。 1945年(昭和20年)8月9日には原爆投下により長崎電軌の路線は全線不通となる[6]。復旧に際しては長崎駅前 - 西浜町 - 蛍茶屋間の再開を急いだため西浜町から当停留場までの区間は後回しになり、放置されていた間に軌道上に闇市が立ってしまったため、再開は1953年(昭和28年)まで遅れることとなった[5][7]。再開に合わせて停留場は移設されている[8]。その後1968年(昭和43年)には当停留場から先に路線が延伸、正覚寺下(現・崇福寺)までの区間が開通した[9][10]。 」 |
| 鍛冶市通り
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思案橋駅付近にある、ストリートビューはコチラ
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| おらんだ橋
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| 唐人屋敷跡と新地中華街
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唐人屋敷跡とはブログによると
「 江戸時代、十善寺郷幕府御薬園(現:館内町)に設置され、出島と共に海外交流の窓口として大きな役割を果たした中国人住居地区跡。現在は「唐人屋敷象徴門」が建っています。 鎖国政策が行われるまで中国人は市内に自由に住んでいました。しかし密貿易とキリスト教浸透を防止するため、幕府は1689年に唐人屋敷を建設し、中国人を収容・隔離、出入りを厳しく管理したのです。 周囲を練塀や堀で囲まれた唐人屋敷は、約9,400坪の広さと、約2,000人の収容能力をもち、瓦葺き2階建ての長屋が約20件ありました。長崎の商人たちが入れたのは屋敷入口の二の門までで、中に入ることを許されたのはなんと遊女だけ。中国人の外出が許されたのは唐寺参拝の時だけでしたが、屋敷内では伝統行事を自由に行うことができ、宴会は毎日のように開かれていたそうです。 現在は土神堂・天后堂・観音堂と福建会館の4堂のみが残されており、遺存していた「旧唐人屋敷門」は興福寺内に移築されています。2015年には唐人貿易や当時の生活を紹介する「蔵の資料館」もオープン。 また館内町には当時の道路や石垣、空掘などの歴史的遺構が多く残されており、隠れた魅力がいっぱい! さらに中国の文化や風習は、長崎くんちの「龍踊り」や「精霊流し」、「卓袱料理」や「ランタンフェスティバル」として形を変えて残っており、時代を越えて今に息づく偉大な輸入品です。 」 |
| 新地中華街駅
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長崎新地中華街のWIKIによれば
「 長崎新地中華街(ながさきしんちちゅうかがい)は、長崎県長崎市新地町に形成された中華街である。横浜中華街、南京町中華街とともに日本三大中華街と称される。 南北250メートルの十字路には長崎市の姉妹都市である福建省福州市の協力によって石畳が敷かれ、中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねている。 歴史 江戸時代の鎖国下でも長崎は対中貿易港として認められ、最盛時には約1万人の福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住居した。当時の長崎の人口は7万人であったから、いかに華僑が多かったかがわかる(参考:オランダ東インド会社が存在した18世紀まで、オランダ船が来航していない期間に出島に住んでいたオランダ人は約15人)。 その後、中国人の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されたが、1698年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。 この地域が新地と呼ばれた。幕末の鎖国政策の放棄により、1859年長崎港は国際開放され、唐人屋敷は廃墟となり、在住中国人は海岸に近い新地に移り住むようになった。これが長崎新地中華街の起源である。 横浜中華街、神戸中華街と比較して、現在同地区で商売している中国出身者は少なく、母語が日本語の商売人が大半を占める。 」 |
| 銅座川
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銅座のWIKIによれば
「 銅座(どうざ)は、江戸時代に銅の取引や、銅の鋳造(鋳銅)をした場所。 長崎の銅座 1724年(享保9年)に浜町そばの埋立地に鋳銅所(築地銭座)が設けられ、輸出用の銅の鋳造を行っていたが、1738年(元文3年)に廃止された。その後、1741年(寛保元年)にその跡地に銅座銭座が置かれ、鉄製寛永通宝等の鋳造を行っていた[2]。 鋳銅所の廃止後、その跡の埋立地を「銅座跡」と呼称したのが地名の起こりである[3]。1868年(明治元年)7月に東銅座町・西銅座町が置かれ、同年10月に両者を併せ銅座町とした[3]。現在は周辺と併せて長崎市内で有数の歓楽街となっており、鋳銅所があった場所付近に「銅座跡」の碑が建立されている。 」 |
| 長崎クスノキプロジェクト
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長崎クスノキプロジェクトのHPによれば
「 長崎には「被爆樹木」と呼ばれる木々があります。 長崎には、原爆の爆風や熱線を耐え抜き、 今も生き続ける50本の「被爆樹木」が存在します。 長崎クスノキプロジェクトは、そんな長崎の「被爆樹木」の保全、保護を行います。 そして、その存在を広く認知してもらうことで、戦争の記憶、被爆の実相を伝え、命の逞しさ、平和への願いを次世代へとつないでいくプロジェクトです。 」 「 ニュース 2025年6月24日(火) 長崎クスノキプロジェクト『ラッピング路面電車』を運行します! 「長崎クスノキプロジェクト」では、被爆80周年を契機として、本プロジェクトの周知を図ることを目的に、「ラッピング路面電車」を運行します。 車体には、被爆クスノキ(山王神社の大クス)を全面にデザインし、被爆樹木が持つ、「命の逞しさ、平和への願い」を表現しています。 長崎市民のみならず、長崎を訪れた多くの方々が、被爆樹木の存在を通して「平和」について考えるきっかけとなれば幸いです。 ラッピング路面電車を見かけられた方は、是非X(旧Twitter)や Instagramにハッシュタグ 「#長崎クスノキプロジェクト」を付けてご投稿いただければと思います。 【運行概要】 ・運行期間 : 令和7年7月1日(火)〜令和7年12月31日(水) 予定 ・運行路線 : 全路線をランダムに運行 ・車 両 数 : 1両(1800形) ・協 力 : 長崎電気軌道株式会社 」 |
| 長崎路面電車(新地中華街駅付近)
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| 路面電車の路線図
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長崎電気軌道のHPによれば
「 長崎電気軌道株式会社(ながさきでんききどう)は、長崎市内で路面電車路線を営業する軌道事業者である。 1914年(大正3年)8月2日設立。1915年(大正4年)11月16日、病院下(現在の大学病院) - 築町(現在の新地中華街)間の電気軌道(路面電車)を開業し[4]、現在、5路線4系統を営業する。 1945年(昭和20年)8月9日:原爆投下により、全線不通、車両16両焼失、職員120人死亡[18]。 」 |
| 長崎新地中華街
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| 女の都団地(行き先)
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長崎新地ターミナル内にある案内、女の都団地とかいてMENOTODANNCHIと読む。
女の都についてはコチラのブログに詳しい 「 長崎は、はじめてという友人とまちを歩いていた時のこと。スッ頓狂な声で「おんなのみやこ」という、一瞬なんのことかと思ったら走り過ぎた県営バスの後ろに「女の都団地」とある。長崎人なら「おんなのみやこ」とは言わない、誰でも「めのと」と読める。 しかし、言われてみると「おんなの都」は女護ヵ島を連想させ、なるほど珍名の1つに違いない。でもって、そのいわれを探ってみた。 元々は川平郷、昭和40年代半ばから、団地開発がすすむなか、新たな町名で生まれたのが「女の都」。川平郷には「○○平」の字名が多い。新町名には、この郷にあった「女の都平」に由来するという。ならば、女の都平の由来は如何。 「わが町の歴史散歩」(熊弘人著)によれば、古書に女の都(めのと)の元々の地名は「乳母」と表記されていた。日本元号では「元禄」15世紀の終わりころ乳母で金山採掘とあるそうな。平は平野を指すが、平野地の少ない長崎では緩やかな傾斜地も平とよんだのであろう。古代、日当たりの良い南向きの傾斜地を老婆の懐(ばばのいくら))というとのこと。乳母はここからきているのではないかというのが一説。いま一つは平家落人説。平家の女官たちが落ち延び住み着いたところからきたという。 はてさて、地名の由来とは面白い。どなたか本当のところをご存知なら是非、ご教授願いたい。 」 長崎新地ターミナルのWIKIによれば 「 長崎新地ターミナル(ながさきしんちターミナル)は、長崎県長崎市新地町にある長崎自動車(長崎バス)のバスターミナル、長崎自動車本社。メインテナントはイオン長崎店。 」 |
| 都市伝説展2025 in 長崎
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都市伝説展2025in長崎の事はコチラのブログに詳しい、動画も見ることができる。
「 東京で反響を呼んだ「都市伝説展」が九州初上陸! UMA研究家中沢健氏、怪談研究家吉田悠軌氏、オカルトコレクター田中俊行氏、怪奇ユニット都市ボーイズら豪華メンバーを制作人に迎え怪談や未確認生物、UFO・宇宙人をはじめ、学校の怪談や世界のミステリーなど様々な都市伝説を立体物やパネルを交えて解説。更に世界中から集めた呪物や東京スポーツ新聞社の協力により過去の東スポ紙面を飾ったオカルト関連記事など驚異の展示があなたを待っている…。 その他、心霊写真や呪物展示、フォトスポット、グッズコーナーなど、老若男女様々な方が楽しめる展覧会です。 今年「都市伝説展」を見られるのは、長崎会場のみ! この貴重な機会をお見逃しなく!!※すべては仮説のひとつです。 」 ※引用者注:大人1300円とあるので、かなり期待できる内容なのであろう。 |
| マリオットホテルラッピングの路面電車
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JR九州ホテルズアンドリゾーツ株式会社のニュースによると
「 2025 年 1 月 15 日 JR九州ホテルズアンドリゾーツ株式会社 期間限定 長崎電気軌道 路面電車内におけるマリオットホテルのシグネチャーフレグランス体験のご提供について 長崎マリオットホテル(長崎県長崎市、総支配人 吉満啓一郎)は、2025 年 1 月 16 日(木)に、開業 1 周年を迎えます。この 1 年のご愛顧への感謝を込めまして、長崎電気軌道株式会社(長崎県長崎市、代表取締役社長 中島典明)のご協力のもと、世界中のマリオットホテルでゲストをお迎えしているシグネチャーフレグランス「ATTUNE(アチューン)」の香りを、路面電車内でお楽しみいただくサービスを、2025 年 3 月 31 日(月)までの期間限定で提供いたします。日常・観光の足として路面電車をご利用の際に、ぜひマリオットホテルブランドの世界観をご体験くださいませ。 」 ※引用者注:3月31日までの期間限定ということであるから、この列車にフレグランスのサービス機能はないのだろう。 |
| 長崎みなとメディカルセンター
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| メディカルセンター停車場
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| 長崎市恐竜博物館へ23km
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長崎市恐竜博物館(ベネックス恐竜博物館)のHPによれば
「 当館は、国内で初めて発見されたティラノサウルス科大型種の化石など、他では見られない長崎市産の恐竜をテーマとし、 石炭ができた時代を経て現代に至るまでの長崎市特有のストーリーを活かした博物館です。 [ 長崎と恐竜のつながり ] 日本の古生物学の父とされる横山又次郎東京帝国大学教授は、長崎出身であり、"恐竜"という訳語も横山先生による教科書が日本最古の記録とされています。長崎半島に、8100万年前の恐竜時代の地層があることがわかり、「三ツ瀬層」と名付けられています。国内でも有数の化石産地として研究者の注目を集めています。 県内最初の恐竜化石は、2010年に発表されたハドロサウルスの大腿骨の化石です。その後も、翼竜や、獣脚類、鎧竜が見つかっており、2015年にはティラノサウルス科の大型種としては国内初となる歯の化石を発表されました。白亜紀後期の長崎市周辺にティラノサウルス科を含む様々な肉食恐竜たちが生息していたことをさらに再確認するものとなりました。他にも、スッポンの化石も見つかっています。 (化石画像提供:長崎市教育委員会・福井県立恐竜博物館) 」 |
| 出師橋(すいしばし)
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明治24年(1891)、現在の市民病院付近に棟瓦造2階建ての長崎税関庁舎が建設されました。さらに、明治30年代の第2次港湾改良工事によって出島の海側が埋め立てられ、その埋立地と梅香崎(うめがさき)の間にできた銅座川河口部に、明治37年(1904)、出師橋(すいしばし)が架設されました。出師とは、軍隊が出発するという意味があり、日露戦争中に第6師団がこの橋を渡り出征したことに由来します。
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| 長崎水辺の森公園と長崎県美術館
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長崎県美術館のHPによれば
「 長崎県美術館は、2002年に老朽化のため閉館した長崎県立美術博物館(1965年開館)のコレクションの一部を引き継ぎ、2005年4月に開館しました。収集方針として(1)「長崎ゆかりの美術」、(2)「須磨コレクションを起点とするスペイン美術」、(3)「美術館にふさわしい優れた美術作品」の3つを掲げ、開館以降も精力的に収集を重ねています。収蔵作品数は約8,900点(2024年3月末時点、寄託作品を含む)にのぼります。特に15世紀から現代までに至るスペイン美術コレクションは、当館の最大の特色といえるでしょう。5つの部屋からなる常設展示室では、年間を通じてさまざまな切り口で作品を入れ替えながら当館のコレクションを紹介しています。 須磨コレクションを起点とするスペイン美術 須磨コレクションとは、第二次世界大戦時に特命全権公使としてスペインに派遣された須磨彌吉郎(1892-1970)が現地で収集した作品群のこと。1970年にこれらのうち一部が長崎県に寄贈されたことを端緒とし、長崎県では1980年以降、須磨コレクションを核としてピカソ、ミロ、ダリといった20世紀美術の巨匠たちをはじめとするスペイン美術の収集をおこなってきました。当館でもこの方針を引き継いで収集を重ねており、東洋有数の規模を誇るスペイン美術コレクションが形成されています。 」 |
| イカルス号事件
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イカルス号事件についてブログによれば
「 「ナガサキ タイムス」とイカルス号事件 その1 「崎陽雑報」で報道された事件の真相 慶応3年(1867年)7月6日、長崎の丸山で英国水兵2人が泥酔して眠り込んでいたところ、何者かによって殺害されるという事件が起こりました。幕末長崎で起こった外国人への暴行事件、イカルス号事件です。 すでに幕府の権威が動揺し、時代は大きく変わろうとしていた時期です。長崎には多くの外国艦船が入港し、外国人居留地が形成されていました。事件の3カ月前の4月、坂本龍馬たちの亀山社中は海援隊と改称して、土佐藩の配下に入り、6月には龍馬と後藤象二郎が上京途上の夕顔丸船内で新しい国の形を相談したと言われます(船中八策)。同じ6月長崎では、浦上のキリシタン信徒が多数捕縛されています(浦上四番くずれ)。7月には町年寄以下の長崎地役人を再編成し、職務のない地役人は遊撃隊(のちの振遠隊)という軍事組織に編制しなおす町方支配の制度改革が断行された時期です。半年後には幕府が政権を返上し(大政奉還)、新政府が樹立されることになります。こんなさなかに起きた事件でした。 イカルス事件の犯人は筑前藩士金子才吉でしたが、金子は2日後に自害。筑前藩は事実を隠匿しました。当時、イギリスの犯人追及は厳しく、一時は海援隊士の犯行が疑われました。しかし、犯人が挙げられることなく、うやむやとなっていました。 イギリスは明治新政府に対しても、イカルス号事件の犯人追求を要求し、真相は明治元年10月になってようやく明らかとなりました。犯人が誰であったのかも含めて事件の真相を長崎で報道したのは「崎陽雑報」第四号でした。それは明治元年10月末から11月初めにかけて発行されています。その記事のニュースソースは当時長崎で発行されていた英字新聞の「THE NAGASAKI TIMES」(以下、「ナガサキ タイムス」と記す。)であり、同紙掲載記事の翻訳でした。(続く) ※イカルス号事件の概要については『幕末長崎イカルス号事件』(松竹秀雄著)を参照 【長崎県文化振興課 山口保彦】 」 |
| 我が国 鉄道発祥の地
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慶応元年(1865)、英国人貿易商トーマス・グラバーが、ここから松ヶ枝橋の方向にレールを敷いて、英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号(鉄の侯爵)を走らせました。集った人々は驚きの歓声を上げて見物しました。この運転は営業を目的としたものではありませんでしたが、蒸気機関車の運行としては日本で最初のものでした。この試走は日本近代化の先駆けとなりました。
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| 運上所跡
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運上所は、安政5年(1858)の開国により、税関の事務、外国船からの税金徴収や荷改めを行うために設置されたもので、当初は「湊会所」と呼ばれていました。そして万延元年(1860)の第一次居留地造成工事に伴い、築町の俵物役所内に移転しました。
文久3年(1863)に「運上所」と名称を改め、慶応2年(1866)には庁舎をこの地に新築・移転しました。その後、明治6年(1873)に運上所は「長崎税関」と改称し、明治24年(1891)に本庁舎の立て替えが行われました。長崎税関が現在の出島町に移ったのは、昭和3年(1928)のときです。 |
| メットライフ生命長崎ビル
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| 旧淵村ほかのロシア旧蹟
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ロシア旧蹟
1 悟真寺(嘉永・安政ロシア兵上陸地) 2 ロシア海軍借地跡(明治8年〜明治18年) 3 ロシア海軍士官止宿地域跡(いわゆるロシア村) 4 ロシア人上陸場勤番所跡 5 ロシア人墓地 6 ロシア兵射的場跡 文久3年(1863)〜 7 ロシア兵射的場跡 慶応2年〜明治36年(1903) 8 ロシアマタロス休息所跡 9 アスコルド号修復地 安政5年(1858) 10 ナジェジュダ号待機所 文化元年(1804) 11 ナジェジュダ号船具陸揚地 文化元年(1804) 12 ナジェジュダ号修復地 文化元年(1804) 渕村外 13 レザノフ使節ロシア仮館跡 文化元年(1804) 渕村外 14 ロシア領事館跡(南山手町) 渕村外 道永お栄旧蹟 1 料亭ボルガ跡(諸岡おマツ) 2 ロシア海軍士官休息所跡(福田別邸) 3 お栄拠点屋敷跡 4 ホテルベェスナ跡(お栄) 5 ステッセル将軍一行上陸波止場 6 お栄桟橋跡 7 「お栄さんの道」碑 8 お栄本宅・ホテル・隠居所跡 9 お栄墓地 志賀・桑姫旧蹟 1 志賀山(長崎志賀家発祥の地) 2 志賀三代祠 3 桑姫御前塚跡(長崎名勝図絵) 4 志賀・尾崎屋敷跡 5 桑姫橋 6 桑姫遺跡(渕神社内) 7 志賀庄屋役宅群跡 8 ネヴァホテル跡(志賀親朋) 9 志賀家墓地 その他旧蹟 1 鵬ヶ先焼(ぼうがさきやき) (佐賀藩見張所)跡 2 異国人休息所(英・米・蘭・ロシア)跡 平戸小屋郷 3 黒田藩水の浦屯営所跡 4 こがね島跡 5 荒木宗太郎 宅跡 朱印船貿易商 6 西泊御番所跡 7 道生田(どしょうだ)塩硝蔵跡(木鉢) 8 木鉢浦見送番所跡 9 小瀬戸番所跡 |
| 梅ヶ崎ロシア仮館跡
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文化元年(1804)
9月6日 ロシア船、長崎港外、伊王島沖に投錨 9月7日 高鉾島と神ノ島の間に?? 9月8日 ロシア側から文書三通(ロシア語・日本語・中国語)を受取る 9月14日 高鉾島の内側(北)に投錨 9月20日 (昼12時近く、オランダ船二隻は、定められた碇泊所から神崎と両御番所の間に移動、投錨) 9月24日 ロシア側は、ねずみ島に??散歩を求めた(不許可) 9月27日 長崎港外 木鉢浦(キバチウラ)に上陸許可を通知(但し、ロシア人は上陸せず、艦のロープ、帆?等の置場に使用した) 10月8日 (オランダ船二隻、この日出帆) 10月9日 夕方(オランダ船二隻がいたところに)ナジェジュダ号を曳航、投錨(但し、文化元年記録古文書によれば、10月10日ロシア船を大多島に曳航、投錨とある) 10月21日 梅ヶ崎の昆布蔵の前の?地をロシア仮館として準備にかかる 11月17日 梅ヶ崎ロシア仮館に上陸せしむ 11月23日 ロシア船が曳船によって出島と梅ヶ崎との間に曳かれ、投錨(修理のため) 文化二年 1月8日 ロシア人、風船(気球)を飛ばす。この日風船が町中の家の上に落ち、煙を発した。 1月9日 奉行所は、ロシア人の気球飛揚を禁止 2月30日 朝10時頃、目付遠山金四郎、長崎到着 3月6日 奉行所(立山役所)にてロシア使節と会う。 3月10日 ロシア使節より、仙台、寒風沢村(塩釜市)の漂流民津太夫ら四人を受取る 3月19日 ロシア船、曳き舟を以て高鉾島の外に曳航される。 3月20日 ロシア船ナジェジュダ号、午前中に出帆す (「オランダ甲比丹《カビタン》ドゥフの秘密日記」「クルーゼンシュテルン日本紀行」「通航一覧」及び文化元年記録古文書による) 梅ヶ崎における使節の居場所 向かって右から海側の門口。その左は贈礼品を納めた倉庫。中央が使節の住む所で、玄関にロシア護衛兵がみえる。 梅ヶ先ロシア仮館 右上端の医師団は、現在はオランダ坂。 左上端の凹みは、現在もそのままである。 中央上部(現活水女子大)?下の干潟は延宝8年(1680)に埋め立てられて梅ヶ崎と名付けられ、土蔵は28間(50.9m)あった(長崎実録大成)。 ロシア仮館は、その後に埋め立てられた空地に建てられた。 気球飛揚 この絵の使節居所の玄関に、ロシア護衛兵2人が描かれており、クルーゼンシュテルン紀行の絵にもその2人が描かれており、クルーゼンシュテルン紀行の絵にもその2人が描かれている。 これが、船医ラングスドルフによる気球飛陽がロシア仮館の中庭であった証しである。 ※気球落下の場所は、環海異聞に「水主(カコ)町」とあるが、これは長崎古今集覧に「本籠町(現在の籠町)酒屋齋藤井三郎助裏手屋根墜ち」とある。 |
| 大浦海岸通り
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右の写真の波止場が荷物検査所、船着き場として建設された長崎税関四番波止(はと)です。その屋根越しに見える建物が、三井物産長崎支店(現・十八銀行記念体育館)で、写真中央にはアメリカ領事館、その右には明治41年(1908)に建設され、現存する英国領事館(※)(※※)がみえます。居留地時代に商社や領事館などが立ち並んだ海岸通りは、大浦バンドと呼ばれるメインストリートで、外国人をのせた人力車や行き交う人々で賑わっていました。右奥に見える建物は、東山手の活水(かっすい)女学校です。
※引用者注:英国領事館は長崎市の観光サイトによると 「 旧長崎英国領事館 国指定重要文化財 1858年、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5箇国との修好通商条約が結ばれた後、長崎は開港場として自由貿易を開始し、外交事務が始められました。 この建物は英国領事館として、上海のイギリス人技師ウィリアム・コーワンの設計に基づいて、長崎市大浦町の後藤亀太郎(ごとうかめたろう)が施工して、1908年に完成しました。 主屋は煉瓦造の2階建で、1・2階ともに正面・両側面の3面にベランダを配置しています。両端の外壁にあけられた丸窓や、1階両側壁面やアーチ部分に花崗岩を入れてアクセントをつけるなど、正面性を意識したデザインがなされています。 建築当初からの本館・附属屋・職員住宅をはじめ、門・塀にいたるまで敷地全体にわたり、建築当時の状態をよく保っているとともに、設計図や仕様書なども残されています。明治後半期(20世紀初頭前後)の洋風建築として、造形・意匠の面からも、歴史上・景観上貴重なものです。加えて、近代日本外交史の一端を示す資料としても高い価値を持ちます。 」 (※※)引用者注:第二次世界大戦中はどうしていたか、原爆投下のときはどうなったのかを説明してあるWIKIによれば 「 第二次世界大戦が激化した1941年に領事館は閉鎖され、1942年からはスイス公使が瓜生商会長崎支店を財産管理人に任命して管理された[1]。 大戦後、英国政府は長崎の領事館を廃止することを決め、建物を売却することを条件に英国政府に購入を申し入れた。しかし、価格の折り合いがつず、英国財務省の資産処分の原則に従い、競売にかけられることになった。 」 |
| 長崎英国領事館とホームリンガー商会
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明治後期以降の写真で、現存する煉瓦造りの長崎英国領事館(写真左)とホームリンガー商会(写真右)が写っています。ホームリンガー商会は、フレデリック・リンガーらが設立した貿易商社で、茶や石炭、海産物等の取引のほか銀行業・保険業務等も行っていました。前面の道路は大浦バンド(海岸通り)と呼ばれ、長崎外国人居留地のメインストリートとして多くの行き交う人々で賑わっていました。
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| 旧長崎英国領事館
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| ワシントンヤシ(ワシントンパーム)
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| 旧香港上海銀行長崎支店記念館と中国歴代博物館(孔子廟)
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旧香港上海銀行長崎支店記念館のWIKIによれば
「 旧香港上海銀行長崎支店(きゅうホンコンシャンハイぎんこうながさきしてん)は、イギリスの銀行である香港上海銀行の旧長崎支店を引き継いだ記念館である。 香港上海銀行長崎支店は1892年に開設、1904年に竣工。建物は建築家の下田菊太郎が設計した、現存する唯一の建造物で、長崎市内の石造り洋館として最大の規模を持つ。当時神戸以西唯一の外国銀行で、在留外国人、なかでも貿易商を主な取引先として外国為替やロンドンや上海、香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行だった。 営業業務を終えた後は、長崎県が買収し梅香崎や大浦警察庁舎として使用され、その後長崎市が買収すると長崎市立歴史民俗資料館(現在は別の場所に移転)となった。1987年にこの建物を解体して「国際交流会館」が建造する計画が立ったが、市民の反対により保存が決定。約4年の補修工事を経て1996年、長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館としてオープンした。1989年に国の重要文化財に指定されている。 」 中国歴代博物館(孔子廟)のHPによれば 「 長崎孔子廟は『論語』で知られる儒学の祖、孔子の遺品を納め祀ったのが始まりです。1893(明治26)年に中国清朝政府と華僑によって建造され、その後幾度かの改修を経て現在に至ります。彩り豊かな極彩色で中国建築様式の伝統美きわまる廟宇(びょうう)は、一歩足を踏み入れた瞬間華やかな中に厳かな空間が広がります。 国内最大の孔子坐像を祀る大成殿やひとつとして同じ顔のない七十二賢人の石像は、圧巻で荘厳な雰囲気。 併設の中国歴代博物館は、北京故宮博物院をはじめ中国各地の博物館が所蔵する国宝級の貴重な文物を常時展示しています。また史料館には長崎孔子廟が所蔵する関連資料や多数の銘品を展示。孔子や孔子廟のことを学ぶには絶好のスポットです。 中国の伝統芸能であり、その仕掛けは国家機密とされる「変面」。 不定期で変面ショーが開催されるので、ホームページをチェックしましょう! 」 |
| 稲佐山山頂展望台
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正面の山頂の円柱形の建物が稲佐山山頂展望台です。
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| 十八親和銀行
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ステンドグラスがちょっとアートなかんじ
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| 松ヶ枝橋(まつがえばし)
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| 大浦川
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| 弁天橋と大浦川
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大浦川の両岸は、居留地【きょりゅうち】時代を中心に外国人向けのホテルやバーなどの洋館が整然と立ち並び、多くの外国人で賑わっていました。中央に写っている橋が弁天橋で、川幅は今よりも広く、運搬用のサンパン(木造の小船)等がひしめくように係留していました。特に、艦船などの入出港の際には、頻繁に船が行き来し、活況を呈していました。ちなみに居留地が造成される前、この一帯は「雄浦【おうら】」とも呼ばれ、長崎八景の一つに数えられる景勝地でした。
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| 軍艦島クルーズジュピター号
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軍艦島とはWIKIによれば
「 端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧:西彼杵郡高島町)にある島。通称は軍艦島(ぐんかんじま)[2]。「羽島」とも書いていた[3]。 明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建造されるなど、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。1974年(昭和49年)の閉山にともない、島民が島を離れてからは無人島である。 2015年(平成27年)、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された[4][5]。 2025年現在、老朽化が進んでおり保全対策が一つの課題となっている[6]。 」 |
| 旧グラバー住宅(グラバー園)と大浦天主堂
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| オランダ通り
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| 大浦天主堂停車場
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| 思案橋から大浦天主堂停車場へ
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